喜々
古代中国の周代に、ある先生から天文占星のための道具として示して貰ったものの絵は、漢和辞典で見つけることが出来た。が、それを利用する際の理論的背景とでも言うのか、そうしたものの確認の一端を得ることが出来なくては、それを小説に含める意味はなくなる。
それ故、モヤモヤとした状態が続き、悩んでいた。
それだけに、その確認を取ることが出来て、凄く嬉しい。それを書いても社会的に問題はないだろうことを確認できたに等しいわけだから、嬉しいのである。
ただ、それを文字として起こす(文章とする)となると、それはそれで困難であるのも事実。とはいえ、文字として起こすことが出来るように可能な限り努めなければ、そもそもが書こうとした目的自体に反するし、頑張ろうとも思う。
背中
それをして、久々に、もの凄く安心した気持ちになっていた。
何故か、それを書いていた方が良いような気がして、こうして書いている。
最近、ゲイコミックも、ボーイズラブ系コミックも、読んでいない。数カ月は確実に読んでいない。色々と取り組むことがあり、それどころではないのだ。が、昨晩は、田亀さんのQuickTimeムービークリップ・Desert Dungeonに久々に目を通して、普通に萌えた。そのせいなのかも知れない。
で、新しいゲイコミックがないかとネットショップに目を通して見たら、新刊が出ていた。
で、買うか買うまいか、思案中。商品によっては重版とはならないから、新刊として出た内に買うのが吉。が、手持ちのお金の都合を考えればこそ、迷うわけで。こういうとき、「金持ちって、良いなぁ」と、切に思う。
唯唯諾諾(いいだくだく)
その諸事情とは、イラク戦争をめぐるイギリスの独立調査委員会です。独立調査委員会による公聴会は来年まで続き、ブレア前首相も証言に立つ見通しです。
ルテルム元首相は、ファンロンパイ氏の手腕振りが明らかであったため、彼ファンロンパイ氏がEU大統領に選ばれた暁には、首相として再任されることは不可避でありました。事実、ルテルム元首相自身、それを見込んで動いていました。
ただ、実際に首相となれば、その後の困難が待っています。ベルギー北部のオランダ語地域と南部のフランス語地域の間の対立を抑えたファンロンパイ氏の偉勲(いくん)が長く続くとは思えません。オランダ語地域の政党に所属するルテルム首相の手腕のほどが試されるわけです。(その背景はどうあれ事実としてある)ファンロンパイ氏への借りを、ルテルム首相は返すことが出来るのか。
注目されます。
それは別として、事業仕分けについて、歴代のノーベル賞受賞者たちが批判の声を挙げました。ニュートリノ研究において2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さんは、受賞後のインタビューにおいて、「日本は基礎研究にもっと力を入れるべきだ」とおっしゃっていました。ニュースや記事の内容からすると、同様の批判が展開されたようですね。
にらめっこ
古代中国の周代に、ある先生から天文占星のための道具を示して貰った記憶があるのだが、その名前が思い出せないのである。先ごろとして様々に調べている中で、「これは!」と思ったものがあったのだが、今ほど名前を控える必要を感じていなかったから、その名前を控えるのをすっかり忘れていた。
で、該当する道具の挿絵が描かれていた漢和辞典とにらめっこ中。
ネットでググってみたけれど、その後の代の道具は見つかるけれど、肝心のそれが見つからない。
我ながら、気が利かないものです。
my kitty
正直、以前の俺は、“my kitty”という表現は好きではなかった。が、実際に家で猫を飼い、その表情や体躯の様を見るにつけ、それに萌えると同時に、その表現に著しく納得した。そして、「俺、こういうのが好きなのか」と、思う他はない。
が、相手の気持ち云々もあるとはいえ、「可愛い」と思えば思うほど、抱き締めたい気持ちで一杯になるほど、やはり距離を置く必要を感じてしまう。俺はしがないフリーターの身分。仕事が無い中、小説を書き進めているとはいえ、それが日の目を見るとは限らない。そもそも、一般に、それが日の目を見たところで、その印税で食べて行くことができるほど世の中そうそう甘くはない(とされる)。
そうして手を出したい気持ちを堪えているとはいえ、それが(一身上のことを通じて伝わり)逆に相手の気持ちを逆なでしているのだとしたら、正直戸惑う。
俺として、(その人は)どちらかと言えば余り係わりたくはないタイプの人なのだが、その一方で、「愛しくて堪らない」と思ったりもする。気持ちとしては、本当に好きなのだよな。でも、「少なくとも口に出す好悪については、(俺自身もまた)一定の責任を負わねばならない」と、肝に銘じて久しいから、やはり口には出せない。
それを容易に口に出すことの出来た幼年〜未成年の頃が、酷く懐かしい。
纒向(まきむく)遺跡 [2]
私として見ている内容に現実が追い付いて来るのが嬉しい半面、「歴史的事実としか判別できない後世の人たちにおいて、歴史上の人物に当たる人たちの気持ちを知ることは、一体どれほどの意味があるのだろう?」という疑問にも至る。
世の中の偉い人は、「歴史から学ぶべき」と唱えたりもするが、私にとっての歴史とは、そもそもが歴史的事実ではなく、歴史的事実の中に生きていた人たちの胸中。それを判別出来なかった頃は、そのお偉いさんの言葉が、酷く馬鹿げたものとして目に映った。
かつてに比べれば、歴史的事実として検証可能なことも増えて、私もこうして考えることが出来るようにはなっているとはいえ、「どうすれば良いのだろう?」という疑問は拭えない。


