先ほど、 『なかのひと』(アクセス解析サービス)を利用すべく、それをブログパーツとして加えた。前々から知ってはいたのだが、今日、ブログのレイアウト調整に際し、加えてみた。何も表示されないかも知れないし、そうではないかも知れない。正直、謎だ。 とはいえ、設置する上での恐怖と好奇心を秤に掛けた場合、今の自分においては、好奇心が勝ることになっている。 私は、一身上のこと故、コメントもトラックバックも受け付けてはいない。それには、「コメントを寄せられても、その内容が中傷の類に終始する場合、気持ち的に追い付いていけないから。」という理由もあるとはいえ、時間がないことも大きな理由。自分自身の変化を一体どのように培うか、そのことを考えればこそ、今のところは、受け付けるのは難しい。 が、『なかのひと』は、自分が一身上のことに向き合う上で、多分に必要なツール。「これで良いのだ。」と、思うことにする。どのような表示がされるに至ったとしても、諸々のことについて参考にするために、設置したことを肝に銘じたい。…とは記すものの、心臓に悪いな。やっぱり。
[ 2008/03/23 21:40 ]
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先ほど、emo[エモ]というブログパーツを設置した。 emo[エモ]のサイトによれば、「ブログに書かれているコトバを分析して、今まで気が付かなかった自分の感情や性格を発見する事が出来る分析型ブログパーツサービス」だそうだ。正直、参考になるかどうかは知れないけれど、逆にそれが良いのかも知れないとも思う。 心理テストにおいて、恐らくは分析に際した効率の観点から、紋切り型の答えを要求するような場合がある。当然ながら、人生様々にある中で、提示された紋切り型の答えと一致する答えを自身が得るとは言い難い。それ故、正直であろうとすればするほど、飽く迄も、“近い”答えを探すしかない。 でも、それは飽く迄も、“近い”答えであって、正確ではない。 とはいえ現実には、その“近い”答えを前提とした分析をされることになる。 以前の私は、それが嫌で嫌で堪らなかった。確かに、今も嫌だけれど、以前ほどではない。恐らく、他人に説明する上では、そうした“近い”答えも自身として汲むことが出来なければ駄目であることを執拗に認識するようになった御蔭だろう。 学生の時分に比べれば、(常人に比べればまだまだ劣るとはいえ)識別能力の向上を自身に許すことが出来るようになっているし、それを認識することが出来るようになっているだけでも、私としては正直有り難い。そうしたことを意識するに、今の自分にとって、emo[エモ]というブログパーツは歓迎するべきものと判断される。 果たして、一体どのように私のemo[エモ]は変わって行くのか。楽しみである。
[ 2008/02/07 14:30 ]
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ここ最近、我ながら、喋り辛いし、考え辛い。他の人の話し方を見ることで、「言葉の選別の仕方が変。」と思うことはあるにせよ、翻って自身を顧みれば、喋り辛いし、考え辛くなっている。 以前の方が、状態として良かったのか。それとも、回復が進む中で、そうしたことを対象化出来るまでになっているだけなのか。我ながら、よく分からない。 とはいえ、HPやブログに以前に記した内容に目を通すに、当時よりは落ち着いて考えることが出来るようになっていることは事実だから、回復が進んでいるということに間違いはないのだろうが。 本当に、変な人生だよな。
[ 2007/09/06 17:42 ]
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“聞こえている”ことに悩むに当たり、私が一番懸念したのは、八つ当たりとも取れる感情を抱くこと。その感情を抱き続け、その感情のままに物事を判断することを固定化されるとなれば、私自身にとってもメリットはないから。 もちろん、人間として曲がりなりにも生きている以上、イライラとしないという方が不自然だし、イライラという言葉で片付けることが出来る感情も、その背景を探れば、その原因は様々。そして、その原因に、私個人において対応可能なことを進めようとすれば、正直、時間が幾らあっても足らない。 私という単体に係わることなら、それに基づいて、ある程度は対処することが可能。でも、“聞こえている”ことを含めて考慮するとなれば、暗中模索も良いとこ。 でも、以前において、俺は、「しなくてはならない。」と、考えた。今となっては、何故、ああも思い切れたのか分からないけれど、裏返せば、それだけ逼迫した心理的状況にあったということなのだろう。そして今日に至る道程の御蔭で、以前ほどの気持ちは、私にはない。 正確には、これまで辿って来た経緯と、日々努めていることの成果だろうが。 これで飯を食って行くことが出来れば、それに越したことはないのだが、そんな簡単に済めば、これまでにおいて悩んでは来ていないことも事実。それはつまり、私自身もまた、そうした事実を無視するというわけでもないけれど、距離を保つ必要があるということに他ならない。 将来的な生活の不安もあるとはいえ、日々において、それが上手く出来ているかどうか不安だよ。
[ 2007/08/26 22:42 ]
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ここ最近、どんどんと冷静になって来ているように思う。別に、世に問えるほど沈着冷静であるとは言わないけれども、以前の自身に比べれば、冷静な視点を得ることが出来るようになって来ているわけである。 とはいえ、それは、その一方で、将来への不安と向かい合うことに他ならない。 昨日、アルバイトを休むことになったわけだが、別にやましいところがあったわけではない。一昨日から考えさせられていたことの延長で、疲労が溜まっていることを意識せざるを得ず、休むことになってしまったわけである。
◇ 私は、アルバイトを始めたことで、それ以前よりも心情面含めて記す機会が格段に減った。仕事をすることを考えれば、それは仕方のないことだから、そうしたことを自身として受け入れることが出来るようになる必要があるわけだが、そう簡単ではない。 スキルアップする必要があることを認識させられる一方、『スキップ・ビート』(仲村佳樹/著)の最近の内容ではないが、その土台の土台を培うべく費やして来た事事を考えれば、厳しいわけである。 幾ら冷静な視点を得ることを許容することが出来るようになって来たところで、私が私であるところの前提がなくなるわけではない。そのことを、ひしひしと感じるわけである。 勉強をしたい気持ちがある一方、その気持ちに従った行動を適えるためには、「“聞こえている”ことを通じて感じるプレッシャーに伴う責任を果たした上で、」という前提を適える必要があると考えていたわけだけれども、とてもではないが、それをしつつ勉強をするというのは、厳しい。 かといって、「それ」を心掛けなければ、感じるプレッシャーに全く対応することが出来ず、自身の疲労となって蓄積する。俺は別に神様ではないから、人間の範疇を超えたことが出来るわけではない。だから、それに興じ、勉強を疎かにすることを馬鹿にされても、仕方はないと思う。 俺が『おはよう世界』や『きょうの世界』を見る意味はなくても、それはそれで他人の判断だし、『経済最前線』や『東京マーケット情報』を見るのは岩間さん目的であると同じく判断されても、それはそれで良いと思う。 でも、そうして時間を過ごして来て、ようやっと、現実的な思考を得ようとしている頃合に、変にプレッシャーを与えられるようなことはされたくはない。 他人によっては、「そうした思考をすること自体が、現実的ではない。」と判断するかも知れないが、俺は、そのように判断するような他人ではないから、そんな他人の思考の前提など知らない。正確には、知りようがない。 私は私で、これまで生きて来ている中で、認識として培って来ていること以上のことを記しているつもりはないし、そのように言う他人がいたとしても、私には、どうにも答えようがないわけである。 俺、やっぱり、疲れているなぁ・・・。冷静に思考しているときもあるが、今みたいに、頭の中がぐちゃぐちゃになっているときもあるし、自分が考えるよりも、焦っているのかも知れないな。ま、当然と言えば、当然か。 感覚的に行きつ戻りつする中で、その引き合いの中で、思考の前提にあることを(一定度)固定化した上で、勉強をすることで、その思考の幅を拡げようとしているのだから、こういうときもあるのが当然なのだよな。
[ 2007/04/13 17:19 ]
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恐らくは誰しも、自らの“闇”の部分を見つめるのは楽ではない。 “聞こえている”こともあり、ともすれば、私自身、私とは異なる他人の“闇”も踏まえた見方をすることを余儀なくされ、私自身の「人格」と他人の「人格」との間でのせめぎ合いを感じることを強く意識させられていた時分には、特にそうだった。 だから、他人として、“聞こえている”ことを理由として、その人本人が向き合うべき“闇”を、私自身に転嫁しようとする心理も、正直な話、分からないではない。だから、ネット上で、またはリアルで、その趣旨の言葉を投げかけられた時には、辛く感じもしたが、その一方で「仕方ないのかなぁ。」とも思う他はなかった。 とはいえ、その延長で殺されたりしたくはないから、自身として可能なことは示す必要性も意識させられた。
◇ こうして記すことも、その一環ではあるのだけれども、記すことに努めることで一杯一杯だった時分には、そうして記すことから離れることを考えることは出来なかった。もちろん、必要に応じて記すだけのことだから、初期投資を怠らなければ、歳を重ねる中で、その負担は軽くなるはずである。 人間も、人間社会も、変わる部分は確かに変わってはいくが、変わらない部分はそうそう変わるわけではないし、その辺りのことを詰めたことであれば、その見通しは妥当と言えるだろう。 ただ、それは飽く迄も「妥当と判断された見通し」に過ぎないわけで、実際にどうなるのかは知れないことも事実。 そして、自らの原初が悪魔だろうが天使だろうが、少なくとも今の自分は一人の人間に過ぎないわけだし、「それを踏まえた行動をすることを考えるのは、間違ったことではないだろう。」と思うから、適宜詰めて行かなければならないことはならないのだろう。 そうしたことを社会的に評価される形で実際にして行くことが出来るかどうかは別としても。
[ 2007/01/15 17:47 ]
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回復が進むにつれ、思い至ることがある。 その事実は、確かに掛け替えの無い、大切にするべきこと。 でも、学生の時分とは異なり、今の私は、時間的にも状況的にも、そう頻繁にインターネットを利用できる環境にいるわけでもない。だから、それを記し示すことが出来るかどうかは、(意志も絡むとはいえ)運も係わって来る。 ただ、「これは別に、今でも構わないだろう。」と、判断させられることがあったため、記させて頂く。
◇ 私は、ブログにおいて、コメントやトラックバックを受け付けてはいない。更に言えば、今後として、(利用したい題材は、二三あるものの)ミクシィを利用する予定もない。 というのも、怨嗟の声などを受け付けたくはない気持ちがあることは勿論のこと、もし、私がコメントを受け付けるとすれば、その対象となる人数には数限りがないからである。 その認識を前提とし、コメントを全く受け付けないか、一部(怨嗟の声を含む)なりとも受け付けるか、そのどちらかを選ぶとすれば、私には前者が適切だと判断した。それだけ、その一部よりも、私がコメントを受け付けるべき対象の人数は絶対的に多い。 私自身において、コメントを受け付けたとしても、状況として、対応することの出来る時間が限られているのが明らかな以上、どう考えても、(私には)コメントを全く受け付けない方が適切と言うことが出来る。 ミクシィを利用する予定がないのも、それと原因を同じくする。 招待されたとしても、コメントに関してはブログと同様のことが言えるし、変に酔ったようなことを他人と言い合いたいがために、(今日として)このような機会を利用しているわけでもないし、“仲間”とは縁遠いけれども、それが必然だろうとも思う。 最近は富に思うことだが、(私自身としては、それが普通とはいえ、世間一般的な対人関係に即せば)普通からは本当に離れた人生を送っているから、寂しい気持ちはあるけれど、その背景を前提とした行動をすることには最早慣れているからね。 「慣れている」とはいっても、その中で自分がボロボロになって行っていたことにも気付くことが出来ないほど、鈍化していたわけだから、「一人の人間としては、相当危機的な状況である。」とも言える訳だけれども。 岩間さんを好きになって、その写真を身近に持つようになって(これ、初体験。私が写真を熱心に見続ければ、思念が通じて(その人をその時点に)拘束すると思って、写真を実際に得ることは問題外だったから。)、「その声や姿(存在)に、安らぎを感じていること」を、今の私は知っているから、それは無視できない。 「岩間さんは、一体どういう人なのか?」と思いを巡らせて、一喜一憂しているような毎日。世界情勢とか、政治経済情勢とか、自身の進路の絡む勉強とか、何だかんだと他にも悩むことはあるものの、それが精一杯。 多分、目下においては、それで良いのだと思う。岩間さんをテレビを通してでも見ることが出来なくなる日が来るだろうことを見込んで気持ちが塞ぐことがあっても、それ以上のことが出来るとは思えないし。
[ 2006/11/23 20:53 ]
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以前、他人との間の溝を感じて、ただただ苦悶する他はなかったことがある。そして今日は、そのことを想起させられる事例に、二つほど接する機会があった。 その一つに関連して、記させて頂くならば、私にとって、こうして記すに当たっては、別に、「友達関係」の輪を広げたいとか、自身の虚栄心を満たしたいとか、そうしたことを目的としているわけではない。 「自分が一人の生身の人間として生きて行く上で、これは記して置いた方が良い。」と判断されたことを、可能な限りで、一つ一つ記しているに他ならない。 それ以上とも、それ以下ともならないよう、私は努めて来ているつもりだ。 だから、これを記すに当たり注視させられた事実に、正直、言葉に言い尽くせない、色んなことを考えさせられる。それは、これまで経て来たことを振り返るまでもなく、想定可能な事実であるにも拘らず、結構なショックを受けている。 俺も、まだまだ若いよ。
[ 2006/10/30 21:21 ]
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私は地獄少女などではないため、その手のことを言うことは出来ないのだけれども、私のサイトやブログなどに、怨念を纏わりつけて来る人がいる。 正直、それに辟易している。そしてそれが故に、HPのBBSは閉鎖したままであるし、ブログにおいて私はコメントもトラックバックも受け付けてはいない。 HN(清端。そしてそれ以前のHN)は、(今日として定かではないが)恐らくはそうしたことも勘案した上で導き出しているものであり、余り変な勘繰りをされても困る。 私は、一人の人間に過ぎません。 それ以上のことを求められるのは、心外も甚だしい。
[ 2006/10/20 00:00 ]
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これまで、ふとした弾みか何かで、聴域が広がることがある。それが、自分自身によるものなのか、そうではないのか、悩まされたことがあった。そして今でこそ、かつてほどは悩まないが、やはり、気にはする。
(表層として)“聞こえている”ことについて取り組む以前、私は、夢などを通して、他人の経験や思考を自らのことのように体験するのが嫌で堪らなかった。そして、それが一観測者としての自身に始まり終わることを意識した末として、その事実を受け入れる努力を始めた。 ある一つの犯罪が起これば、私がその原因の一端を担っているのではないのかと、自身を責め、「社会的に成功することを求めることなど、以ての外。」と断じ、自らをして「(社会的に)生活して行くことが出来る程度」に努めることを望んだ。 しかし、その中で、生身の人間の一人として、(表層として)“聞こえている”ことにも直面することとなり、尚のこと、自身を追い込むことになった。そしてそれが極限に達したときには、何処からとも分からない「死ね」という言葉を際限なく聴くことになった。 そしてそれと同時に、社会的に成功することを求める上で、それは社会的な制約を前提としたものであり、その事実は私に限らないことを、より意識するにつれ、それまでの自分自身が馬鹿馬鹿しくなって行った。「私が望もうが望むまいが、至る所としての自身の姿に、大した差はないのでは?」と、思うようになっていたわけである。 そしてその頃には、成人となり、病院に通うことが出来るようになり、処方された薬を服用する中で、回復に努めることになったわけだけれども、やはり今でも、回復の道を辿る以前に立たされることを余儀なくされた感覚を覚える。 それが、私の人生。少なくとも、これまでの、私の人生。
[ 2006/10/12 19:09 ]
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