以前、“学校裏サイト”なるものの存在を知ったとき、そのサイトに罵詈雑言(にもならないこと?)を書き込む人たちのことを知ったとき、正直、何故にそこまでする必要があるのか分からなかった。少なくとも私の場合、言われて傷つくことが多いから、そうして他人のことにまで言及するという神経自体がよく分からなかったわけである。 が、先にも書いている、同じ職場の人間の、余りにも知ったような口を利く人と接する過程で、その気持ちがようやく分かって来ている。 私は、一身上のことへの認識から、自分が立派で大層な人間ではないことを求めて来た経緯がある。たとえ、相対する人がどんなに嫌な、馬鹿な人でも、「私自身もまた、見る人から見れば、そんな感じなのだから。」と、肝に銘じるのが通常だったわけである。その経緯の結果として、社会生活を送って行く上で、人間独特の厚かましさも発揮することが出来るようにならなければ駄目であることを身を持って感じるようになって行った。 が、その必要性は認知出来ても、それ(人間独特の厚かましさ)を上手い具合に発揮することが出来るかどうかはまた別の話。 だから、今の職場環境において、勉強になることは多い。 ただ、その過程で、「どうして、そうなるの?」と、腹立たしさを感じさせられる場面場面に出くわすこともしばしば。「(そこまで言うことが出来るほど人間が出来ているとは思えない)こいつに何故、そこまで言われなくちゃならない?」と、思ったりもするわけである。端的に言えば、「馬鹿に、馬鹿にされた。」という言い様のない嫌悪感を抱くわけである。 そういう嫌悪感を認めることが出来るのは、対人関係があってこそであり、それを考えると、「学校裏サイトに罵詈雑言(にもならないこと?)を書き込む人たちの気持ちも分からないではないなぁ。」と、思うわけである。
[ 2008/08/19 18:38 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
以前、今のアルバイト先の仕事が、(確かに色々とはあるけれども、)どちらかと言えば気楽な方であることと、自分自身の精神状態を理由に、「余り辞めたくはないなぁ。」と、強く思っていた。でも最近は、その気持ちが揺らぎつつある。 その理由の一つは、自分の悪い癖(こうして表現する機会を通じて、プライドめいたものを得るのは良いのだけれども、「嫌だなぁ。」と思うことがあった際に、そのプライドに逃げ込もうとする部分があるわけである。)に対して、以前よりも距離を置くことが出来るようになっていること。 そしてそれと同程度の理由は、同じ職場の人間で、余りにも知ったような口を利く人がいること。 もちろん、誰しも、そのプライドがあるわけで、知ったような口を叩くこと自体は別段非難されるべきことではない。が、その人は、私自身のプライド云々以前に、(こちらも理由があって動いている以上)「もう少し考えて物言えよ。こいつ。」と、日常的に思わせられる人で、好い加減に馬鹿馬鹿しくて嫌になるわけである。 人間的に悪い人ではないのだけれど、「他人のことをとやかく言う頭があるのなら、もう少し考えれば気付ける(分かる)はずだろう?」と、こちらとしては言いたくなるようなことまで(先入観に基づいてかどうかは知れないが)口を出して来る人だから、疲れる。ここ最近は、その疲れの度合いが厳しく、「他の職場に行ったところで、似たような人がいるものさ。」と、思うことさえ儘ならない。 我ながら、結構厳しい状態にあるのである。相手方もそう思っているのかも知れないが、実に大変である。
[ 2008/08/15 22:33 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
ここ数日、再び変な感じに捕らわれている。頭の中が、ぐわわわんとなっているというか、掻き乱されているというか、そんな感じなのである。もっとも、私の場合、それが普通で、そうした状態を回避するためには、多くのニュースを始めとする情報に目を通して、一連のことについて考えるしかない。が、そうそう満足にすることが可能なのであれば、誰もそういう結論になど達しはしないわけで。 だから、今の自身として、「一体どうして、今の時分も、こんな感じになるかな?」と、思う他はない。 様々に考えるに仕方のないことは多いとはいえ、日常生活に支障を来すレベルになるにつけ、流石にキツイ。 哀しいかな、生活を適える上で、将来のために勉強をするしない云々以前に、これがネックとなっていることの一つなのだよな。本当に辛いよ。 人間の一人として生きるって、つくづく難しい。
[ 2008/08/03 00:23 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
久々に、HPの 私事(わたくしごと)のページに目を通したら、何時の間にかレイアウトが崩れており、「何故?」と思いつつも、修正した。そしてその過程で、ざっと目を通すことになったのだけれども、「色んなことを考えていたのだなぁ。」と、思う他はなかった。 ここ最近は、あのページに追記したいことや書き加えたいことがあるように思っても、実際にアップするまでには至っていない。 一身上のことがあるがために、アップすることに対して熱が冷めているとかそういうわけではないけれど、記す機会を逸しているのだよな。記す意味合いとしては、備忘録目的でもあるのだから、出来る限り記していた方が自分のためにはなることなのだけれど、ここ最近は、ね。 いざ改めて記そうと思うことがないというか何と言うか、結局は記すに至るだろうこととして見当が付いていることがあることは意識してはいるのだけれども、それが上手く降りて来ないというか、まとめることができないというか、そんな感じで、記すに至ってはいないわけである。 自分では疲れていないつもりだけれど、こうして顧みるにつけ、「疲れているのだろうかな?」と、思う。魔法の杖を持っているわけではないのだから、一朝一夕に物事を成すことが出来るわけではないのだけれど、気持ちとしては逸る気持ちがどうしてもあり、その気持ちがあるがために、記すことを拒否するに至っている面がないとは言い難い。 自分の思うところを実現するって、本当に難しい。自分は聖人君子ではないつもりだけれども、今のような気持ちを支えているのは、要は聖人君子への志向性があってこそのことのような気もするし、もしかすると、良い意味で“悪人”になることが出来ないと駄目なのかも知れない。
[ 2008/07/26 23:54 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
『gay life japan』(http://gaylife.co.jp/)なるサイトがあることを、今日初めて知った。そのサイトにざっと目を通す中で、『Mr.レディ Mr.マダム』(原題:La Cage Aux Folles/製作年:1978年/製作国:フランス イタリア)と同じくらいのインパクトがあり、正直、気持ちとして引きました。でも、そうした気持ちになる理由には、一応の見当が付いており、サイト中で扱われる内容について、「うげぇ。」と来たわけではないため、悪しからず。 何時頃から意識し始めたかは忘れたけれど、纏わりつく思念というかそういうものに中てられたり、一身上のことを通じて受ける影響のためであることが結構あるため、変な誤解は止して下さいね。 何れにせよ、生活者としてのゲイの人生を良いものとするための情報提供サイトらしく、「良いのでは?」と、思う他はない。何分、私は都市部の生活者ではないため、そうそう目を通すことはないと思うが。 …。どう考えても、以前よりもゲイというものが良く分からなくなって来ている。…。自身がゲイであるには正しいのだろうが、「以前よりもゲイ・カルチャーを許容するようになって来た社会の中で見聞きするようになった情報に対して、戸惑いを隠せない。」と言うのが正確かも。裏返せば、自分の中で、社会をそれだけ近くに感じることが出来るようになっているということなのか。 社会を継続的に変えて行こうと本当に思うのなら、この辺りのことをクリアしないと駄目なのだろうな。きっと。
[ 2008/07/14 20:04 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
先日、機会を得て、戦後に造られた慰霊碑を目の当たりにした。そして、私は多分、霊感とかそういうのはないはずなのだけれども、感覚的に嫌な感じがした。慰霊碑に刻まれた文字は、「忠霊〜」。以前、特攻隊の人たちの記念館に足を運んだことがあるけれど、その時とはまた別の感じがして、それを一体どう受け止めるべきなのか一考させられた。 今でも、種種の事情により戦争や紛争を歓迎する人はいるけれども、そうした戦争屋が勝つか、それとも人間が勝つか。 そうした疑問を、突き付けられているような気がする。 原油高が主な原因とはいえ、食糧事情の悪化が言われて久しい。ただその事実だけを見れば、原油高はそもそもアメリカにも原因があるわけであり、引いては石油に大きく依存した生活をしている先進各国に責任があるわけである。食糧事情にしても、先進各国の事情が幅を利かせている事実に変わりはしない。 だから、もし地球一体として、食糧確保の仕組みを整えようとすればこそ、食の安全や偽装の問題、コピー商品等の企業として認められるべき利害の一致を見た上でそれを正して行かなければならないことも事実で、「(もしそうした意図があるのだとすれば、)世界は変わって行くのだなぁ。」と、思う他はない。
◇ でも、もしそうだとしても、歴史的な先例を顧みればこそ、戦争や紛争が引き起こされる条件は整って来ている(歴史を齧っている一人としてみれば、正確には、意識して整えられて来ているように見えなくもない。)わけである。そして私と同様に、その事実を意識する人たちがいること並びにその認識の共有が今日においては一般に可能なことを考えるに、人間が一体どのような選択をするのか、興味は尽きない。 私は別に、下手に疑心暗鬼に陥った末として、解決の目途が立つようなことも全て御破算にしたいわけではないからな。正直な話、そうした事態を招く一因となるのは御免だ。 以前は、だからこそ、日本の人たちを含め、世界中の人たちの命を背負っているような意識に囚われていたけれど、その意識だけでは、俺は生活して行くことは出来ないし、食べて行くことも出来ない。 アルバイトを始める前は、それを頭では分かっているつもりだったのだけれども、アルバイトをするようになって以降、必要以上に高みから物を見ているような認識に寄り添っているような気がしないでもなくなって行った。自分では意識出来ていない部分で、染み付いていることとかが結構あるのだよな。 それを意識することが出来るようになるにつれ、“聞こえている”ことについて、それほど悩まなくなって行った。もちろん、その事象が故の展開には、留意するべきだと思うし、出来得る限りで留意はしているのだけれども、以前に比べれば、その程度が軽くなっているというか。 俺は高々一人の人間に過ぎない。その事実を踏まえた上で、その事実に甘えている節がないとは言い難いものの、だからといって、戦争や紛争などのような多くの人たちを死に追い遣るようなことをしたくもない。そうしたことを考えるに、俺に出来ることって、目下として自分が考える以上に、不透明であることを認識させられている次第。
[ 2008/07/07 23:42 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
ここ数日、つい少し前とはまた別の体調不良に悩まされている。 多分に、ミャンマー関係の影響があるのだと思う。というのも、こうして記したりすると、一定度プレッシャーが軽くなるのを感じるし。もちろん、その関連性をはっきりと示すことが出来るわけではないから、断定的な表現は余りしたくはないのだけれども。 情報を得る機会が限られているのは、事の大小はあれど、私自身も同じだから、ミャンマーの人たちを哀れむような変な感情を向けることが出来るわけではない。大体、私自身もまた関心を注いで来る中で知り得て来たことに基づく限り、日本も相当変な国だし。 こうして記すことで体調不良が幾らかマシになっている現実が、こういうとき無性に哀しい。
[ 2008/05/12 22:16 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
私は、ミヒャル・エンデ著作品の『モモ』が好きである。その理由の一つは、モモの人柄だけではなく、モモが出会うある人物のことが前提にある。その人物の正確な名前は忘れたのだが、その風体として、少年のような姿をしていたかと思えば、老齢な姿をしていたりするなど、その人を構成する時間がランダムに変化するという人物。 読んだ当時として、その人に対して憧れにも似た気持ちを抱くと共に、親近感も抱いたことを覚えている。 今になって、その理由が漸く分かりつつある。 一般に、歳を取れば、若者と呼ばれる頃は可能であったことも、そう容易くはなくなることは事実。私として、その認識があったから、自身として意識することを一体どのように表現するべきなのか悩まされた。オリジナリティの獲得とか、そういったことでなしに、具体的な説明を可能とするべきであることを強く意識させられて来ているわけである。 だからこそ、かの人物に、憧れにも似た気持ち(その人はその人の姿そのままによって、その実を表現出来ているから。)を抱くと共に、親近感(自身として風体は変わらないけれども、その人と似たような変化が自身の只中で起こっていることを意識するから。)も抱いたことに、「分かるなぁ〜。」と、思う他ないというか。
◇ つい先日においても、自分の中の時間が一定時間巻き戻っているような感覚を覚え、そうして俯瞰できる根拠としての外の時間(客観的な認識としての、何年何月何日に繋がる時間。)との違いに、正直躊躇うのを感じた。というのも、事実としてそれを認識をすることはあっても、普段であれば、そこまで冷静には認識できないはずだから。 が、ここ数日を通して、「あ。あれは端緒だったのだな。」と、思う他はないというか。 常々、私は、「ある時には出来ていたことが、またある時には出来なくなっていること」を認識している旨を記したりしているが、自分の中の時間が一定時間巻き戻っているような感覚を身を持って意識すること自体が正直珍しいというかそんな感じ。 大抵は、巻き戻っていても、その戻る調子が調子だから、そうして補正された視点では、ざーっとしか物事を意識できない。つまり、(表現の仕方は可笑しいが、)普通の人であれば気付けたはずのことも、気付けずにそのまま放ってしまっているわけである。で、他の人が指摘してくれることで、その差分を漸く認識できるという。 そして、私個人としては、そうした認識があるために、つい、そのままの言葉(感謝の言葉)を示してしまうのだが、会話の流れとして、(繰り返しになるが、表現の仕方が可笑しいが、)普通の人であれば、それは言葉そのままの意味を以て解されるべきものではないため、その会話としては破綻することとなる。勿論、他の人として恐らく分かってくれてはいるのだけれども、そのままでは私自身が変わっては行けないため、言うことは言ってくれる。 で、これまた、そのままの言葉(感謝の言葉)を示すと、会話として成り立たないわけで。 こうして記すことを重ねることで、無いよりはマシな対策は取れているはずなのだが、中々どうして。将来に亘って生活して行くためにも、普通の人にどうにか近付いて行きたい手前としては、励むべきことは多い。重々気を付けているつもりでも、その現象は変わらないため(事と次第によっては、その現象への認識も欠落した上での認識を自身として構成してしまうから。)に悩まされるが、こればかりはクヨクヨしたところで、本当にどうにも仕様がない。
[ 2008/04/24 22:45 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
修理を頼んでいたパソコンの修理が終わったということで、今日、受け取りに行った。頼んだ方(プロ)が良い人で、データを残した上でのことだったため、素直に有り難かった。が、パソコンの年季自体が既に良いところまで来ていることを言われたため、その足で電気店に立ち寄り、物色。 店員さんに相談した結果、まずは外付けHDを買って、それにデータを落とし込んでいくことに。 リカバリーをすることも勧められはしたけれど、それには二の足を踏む状態。 何れにせよ、そうしたことを終えた後、要らないソフトを削除したり、ここ数日に発見したブログのウェブ表示の不具合を直すべく、四苦八苦していた。が、どうにもよく上手く行かなかったため、以前使っていたテンプレートに変更し、一時休止。一定期間は、このままの状態に止め置くかも知れない。 以上。
[ 2008/04/22 22:47 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
私はXP搭載のノートPCを使っているのだが、2014年までのサポート期間終了まで何とか使えないものかと、快速化をするべく、ガイド本に従って弄っていた。そして途中までは、ガイド本に従ってそのまましていたのだけれども、「確か、このノートPCには元々Dドライヴのスペースがあったよな?」と、思い出し、どうにかしてそれを確保出来ないかと四苦八苦していた。 記憶が正しければ、マイコンピュータに一覧表示されるDドライヴを、その欄から削除してしまったのが始まり。 「だから、どうにかなるはず。」と、考えて、四苦八苦していたのだけれども。 結果は、『missing operation system』といった感じ(うろ覚え)の状態となり、「ははははは…。」と、がっくり。 後の処置を、プロに任せることとなりました。で、今、自分のPCを利用できない状態。ここ最近、油断してデータのバックアップを取るのを忘れていたから、普通にセットアップされていたら、データは確実になくなっているだろうし、涙が流れるばかり。胸が痛くなって来たよ。尤も、利用できるようになるだけ未だマシと考えて、気を静めないとな。 その時はその時。多分に、バックアップを取り忘れていた自分が悪いのだから、仕方ない。
[ 2008/04/20 09:52 ]
つれづれ |
トラックバック(-) |
コメント(-)
| HOME |
次ページ≫
|