以前、他人との間の溝を感じて、ただただ苦悶する他はなかったことがある。そして今日は、そのことを想起させられる事例に、二つほど接する機会があった。
その一つに関連して、記させて頂くならば、私にとって、こうして記すに当たっては、別に、「友達関係」の輪を広げたいとか、自身の虚栄心を満たしたいとか、そうしたことを目的としているわけではない。
「自分が一人の生身の人間として生きて行く上で、これは記して置いた方が良い。」と判断されたことを、可能な限りで、一つ一つ記しているに他ならない。
それ以上とも、それ以下ともならないよう、私は努めて来ているつもりだ。
だから、これを記すに当たり注視させられた事実に、正直、言葉に言い尽くせない、色んなことを考えさせられる。それは、これまで経て来たことを振り返るまでもなく、想定可能な事実であるにも拘らず、結構なショックを受けている。
俺も、まだまだ若いよ。
[ 2006/10/30 21:21 ]
ご注意下さい。 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
昨日深夜、『シックス・フィート・アンダー』の第36話を見ていました。そして相変わらず、様々に考えさせられたわけだけれど、今の自分には、それを上手く表現することが出来ない。でも、「幾ばかりかのことは記したい。」とも思う。
私自身、「自身の経て来た“躾”が、虐待紛いのものではないか。」と悩んだ時期もあったし、その過程で、そうした過去を受け入れようと努力したこともある。
肌や年齢の違いを前提としたパートナーシップや、育児の特に忙しい時期を過ごした後の何とも言い難い脱力感というか、そうしたものや、性的指向を巡る「混乱」は、(その一部として社会的には)何と表現すれば良いのか知れないが、知っている。
だから、ダンスを習ったことはないものの、薬の副作用で必要以上にハイな状態(躁の状態)になったこともないものの、それぞれの姿に、本当に何とも言い様がなくて、でも、記したい気持ちもあって。
一体、どういう風に表現すれば良いのだろうな。
頭の中では、言葉として、「こういうことなのだろうなぁ。」ということが、ぼんやりとはあるのだけれども、それを実際に表現し尽くそうと努力するには、未だに時間が必要というか。そんな感じ。
人間関係において、どんなに綺麗な言葉を尽くそうが、悪く考えれば、(それは無意識かもしれないが)色々と算段の末の言葉なのかも知れず、その言葉に縋ろうとすることと、実際に頼りとすることが出来ることは、違う。
それは、子どもでも、大人でも、変わらない。
そして、それを分かっているから、距離を測るために突き放しもし、傷つきもする。
そうしたことを分かった上で、相手に接することが出来れば、良いのにね。そうすれば、もっと、傷つかずに済むのかもしれない。変にクレイジーな行動に走らずに、済むのかもしれない。
何だか、堪りません。
[ 2006/10/30 15:23 ]
番組 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
私は今、岩間さんへの気持ちに支配されている。
もちろん、他にも好きな人はいるが、今のところ、紆余曲折を重ねた中で、今日をして冷静に見ることが出来ているのは、岩間さんに対する気持ちだけだから、その気持ちに縋らざるを得ないのも大きいだろう。
そして、そうして自分自身を繋ぎ止めていることを自覚するに、尚のこと、岩間さんへの気持ちを無碍に出来ないという、不可解な循環の只中に置かれているわけである。
そんな人間が、イラクの統治の状態について、どうこう言うことの出来たものではないが、熊谷徹さんの
『ミュンヘン日記』(2006年10月29日更新記事)に目を通すに、先日に『きょうの世界』(NHKBS1)で示されていたことを思い出した。
イラクの統治の在り方において、最近、(再びというべきか)3つの州に分けた連邦制が考えられていると言う。対イラク戦争前から、アメリカが統治を進める上で、3つの地域に分けた遣り方は示されていたから、そこまでの新鮮さはない。
従来の政権は、オイル・マネーと権力を、飴と鞭として上手に利用していたらしい。しかし、今は、戦争後ということもあり、その仕組みが整っておらず、それが治安が安定化しないことに拍車を掛けているような形らしい。
私として、イラクという国としての統合を進めつつも、地域の安定を図ることが必要であることを否定はしないし、それが出来ればどんなにか良いと思っている。
ただ、今日の現状として、従来の体制下において蓄積されていた不満の爆発に端を発するとされている以上、「国としての統合を図るよりも、地域の安定を図ることを重視するべきではないのか?」と考え、3つの地域に分けた遣り方を、私は支持するに至っていた。
とはいえ、それから時を経て、内戦(同一宗派間での、民兵を用いた主導権争いもあるらしい。)とされるような状態にあることを知るにつけ、「“権力の旨味(無情さ)を知っているがために、それぞれが躍起になっている状態”にあるのだなぁ。」と判断せざるを得ない。
言うなれば、(流血を伴う)クーデターが繰り返される社会的な素地は、未だに健在なわけです。
そうしたことを考えるに、国としての統合とか、地域の安定とか、そうしたこと以前の事々が山積みであることを意識せざるを得ません。
もちろん、私よりも教養もあり、専門に長けている人たちは、(私よりも、そうしたことに彼ら自身として理解があるでしょうし、)そうしたことを分かった上で、これまでの活動を続けられているのでしょうし、恐らくは、これから先も活動を続けられて行くのでしょう。
そのことは、“十分に、”とは言いませんが、奇麗事だけに基づいた行動ではない分、尊敬に値しますし、私には、それを軽んじることなど出来ません。しかし、このままであっても、出口が見えて来ないような気がしないでもなく、堪らない気持ちにもなります。
こういうことって、やっぱり、一一般人だけの考えだけでは、どうにもならないよな。俺は、上の人たちみたいに、権力の旨味を知っているわけではないし、知ることが出来るわけでもないし、そんな彼らだって、彼ら自身の基づく現実を振り返れば、実際には、(イラクの人たちに)どうこう言えたものでもないだろうし。
以前、ニュースの中で、「現状を変えて行くことは、イラクの人たちの肩に掛かっている。」という趣旨の言葉を聞いたことがあるけれど、今考えるに、そういう意味もあったのだろうな。詰まる所として、日本の現状を(良い方向に)変えて行こうとすれば、日本の人たちの肩に掛かっているわけで。
難しいものだな。本当に。
[ 2006/10/29 21:35 ]
情報・私事 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
蕁麻疹は再発するというが、本当に酷い状態になって来ている。正直、一体どうすれば良いのか、分からない。医学書によれば、その原因には、心因性のものもあるというから、正直、悩ませられる部分がなくにもない。
先ほど、出掛けていたのだが、高校の頃に同級だった人(性別は、男性。)に会った。
会ったとはいっても、少し立ち話をした程度。
私は、同級の人たちと交流の深い方ではなかったし、地元の成人式にも行ってはいないし、同窓会にも行ってはいない。だから、(表層として)“聞こえている”ことがあろうがなかろうが、余り係わりたくはないというか、「係わることは出来ない。」と考えている節がある。
もちろん、その人のことについて割合良く知っていたのであれば、ここまで記す意味はなかったわけだが、その人のことを正直よくは知らないため、その人に会ったことで抱いた感情に整理がつかず、こうして記すに至っている。
考えてみれば、私は、学校の知人よりも、塾を通した知人の方が印象深い。
その人も、その一人なわけだけれども、それだけに、嫌な思い出も共有する(?)一人でもある。苛めの対象とされているのか、仲良くしようとされているのか、「自らも辛いことを悟って欲しい。」と求められているのか、そうした結構色んな感情をぶつけられた一人。
だから、その人に対しての気持ちは、恐怖だけでは括れないものもあり、自らの等身大の感覚を意識させられるに、はっとさせられることは多い。
とはいえ、その人のことを良くは知らないのも事実だから、本当に、何とも言い難い人である。
そうして考えてみれば、私は、(表層として)“聞こえている”ことに基づき、多くの隣人に囲まれて過ごしていることを具体的に意識するに、ストレスを感じるようになっていた。他人は、確かに他人なのだけれども、俺の方は(知識として)良く知らないけれど、何となくは意識している人たち、というか。
ま、それはそれで、逆に悩む原因になったのだよな。
これまでも、そのことに関して端的に記して来てはいると思うが。
…。「支配する(される)」というのは、本当に難しいのだな。
[ 2006/10/29 17:54 ]
情報・私事 |
トラックバック(-) |
コメント(-)
情報というのは、扱い方が難しい。この世の中、本当に多くの様々な人たちがいる以上、それぞれの見方に可能な限り配慮した上で、正確な情報を伝えるというのは、尚のこと難しい。
一つの事実が明らかになれば、その事実が内包する背景の分、目を開かされるものだし、その繰り返しの中で私たちの生活が営まれている以上、情報に携わる者には、その視座が欠かせない。
でなければ、(その意図はなくとも)「作為的に扇動した」とも判断されかねない。そして場合によっては、その責任から、後ろ指を指されることになる。それは、別に規模の大小に係わらず有り得ることだから、情報を扱うというのは、本当に難しい。
◇
私自身、(表層として)“聞こえている”ことを具体的に意識するに、そのことに悩んだ。
私は別に、生まれて此の方、エリート教育を経ているわけでもないし、最近になって改めて強く意識することだが、一一般人に他ならない。だから、「そんな私が、そうした立場にあることを求められるなど、御免被る。」などと思いはするものの、現実に感じて来ているプレッシャーは容赦ない。
それ故、「私が、もし、そうした意味で裁量の効き易い家に生まれていたのであれば、もっと楽に生きることが出来たのかも知れない。」と、今でも思う。でも、現実は、そうではないわけで。
もちろん、俗に“良い家柄”とされるような家には生まれなかった御蔭で、恐らくは動き易い(考えやすい)こともあるけれども、そのことに関して今のところ私が感じているメリットは、そのぐらいになるのかも知れない。
行き着く先として、その立場に関係なく、(私を含め)「自らが生身の人間であることへの自覚」を有するのは、これまで(情報に)目を向ける中で、知っているからね。
だから、ジャーナリストとして真摯に努めることが如何に大変なのかは、分かっているつもり。そしてそれが故に、それがプロとしての仕事とはいえ、ジャーナリストとして真摯に責任を持って活動されている方たちには、私自身としては、尊敬の念を禁じえない。
◇
その一方で、「情報化社会の進展により、そうした人たちの負担を軽く出来ないだろうか?」と、私自身としては願う。もちろん、目下の現実としては、情報化社会の進展により、様々な情報を人々が利用しやすくなったがために、ジャーナリストの人たちに求められる負担は逆に大きくなっていると見て良いだろう。
様々な情報があることは誰しも分かるわけだから、その中でより公平・公正な選別を経た情報を報道する姿勢が望まれるわけだから。
が、そうした現実を前提とした上で、情報の利用の仕方に人々がリテラシーを発揮することが出来るようになれば、良いと思うし、リテラシーの育成に取り組まれている動きを知るに、私としても安堵する気持ちがどうしても出て来てしまう。
そういう意味であれば、岩間さんが(恐らくは)日々の仕事で疲れるのは分からないわけではないし、大変だと思う。でも、昨晩の(『経済最前線』での)岩間さんを見ていて、(疲れのためか)余裕がないように見え、正直ショックだった。
これまでも、そうした状態の時はあったのかも知れない。それだけに、「今までは、そうしたことも気付くことが出来ないような心情のままに、番組に目を向けていたのか。」と考えるに、自身の精神状態が本当に厳しい状態にあったことを意識せざるを得ず、悲しくなったわけである。
言うなれば、「『好きだ。好きだ。』とは思いながら、岩間さんのことを見ているようで、ちゃんと見てはいなかったのだなぁ。」と、思わせられたわけである。
岩間さんを大切にするには、一体どうすれば良いのだろうな。俺。
[ 2006/10/27 17:00 ]
思慕 |
トラックバック(-) |
コメント(-)