今日、『経済最前線』を、10時56分頃から見ることが出来た。そのこと自体は嬉しかったのだけれども、やはり、最初から見ていないと分からない部分もあって、その分は凹んだ。で、番組の終わりに、岩間さんに、「(〜は、)ただのガキ」と言われているような気がし、ちょっとショックを受けた。
俺は一応、片想いであることは承知の上で、岩間さんのことが好きであることを示しているわけで、その点に従い、別に「ただのガキ」と言われたところで、「いつものことさ。」と思う他はない。とはいえ、やっぱり、ショックを受けたことは否めない。
◇
最近は、回復が進むにつれ、「岩間さんにとって、俺は、魅力的な人間ではないだろうなぁ。」と、思うことが多い。(表層として)“聞こえている”ことがあろうがなかろうが、普通にそう思う。そして、それにより、「心の支えとしている人」の言葉の意味も、「こうだったのだろうか?」と、以前よりも冷静に見ることが出来るようになっている。
そのため、今の私は、「たとえ、自身の気持ちが、その対象にとっては袖に振られるようなものであっても、仕方ない。」という見地に立ち、自分自身を諭す訓練をすることが出来ている。そして、それで良いと思っている自分がいる。
以前、(表層として)“聞こえている”ことを意識する余り、同類を求めて悩んだこともあるのだけれども、縋った先の診療所の先生には、「あなたのような状態にあっても、頑張っている人はいる。」と言われるだけで、それ以上のことは示して貰えなかった。
その言葉だけで(気持ちを新たにして)頑張ることが出来るほど、生易しい心情・環境で生きて来ているわけではなかったから、当時としては、怒りと困惑を抱いたものだけれども、今は、あの言葉を貰えただけで良かったと思っている自分がいるのも確かだし。
フツーの人生を送ることは出来てはいないけれど、一一般人に過ぎないことは分かっているし、「そんな一人として、岩間さんを大切にすることを考えても罰は当たらないだろう。」と思っている。
詰まる所として、想う気持ちが報われたい部分は確かにあるけれど、それだけではないから。岩間さんがそれなりに幸せな人生を送ることが出来るのであれば、それが良いと思う。そのことを、肝に銘じることが出来るだけの気持ちは、ちゃんとあるつもりだ。
◇
『シックス・フィート・アンダー3』の最終話において、デイヴィッドとキースの馴れ初めを絡めた和解の会話があるけれど、正直、岩間さんと自分との間で、あんな会話が成立するとは微塵も考えることは出来ない。
でも、あの姿は、理想でもある。
あの姿に至る道程は、デイヴィッドの気持ちも、キースの気持ちも含め、私として分かるから。
私自身もまた生きている一人として、生きている他人を好きになるというのは、本当に、難しい。
シックス・フィート・アンダーhttp://www.superdramatv.com/line/six_feet_under/
[ 2006/11/30 23:55 ]
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11月28日の『経済最前線』で、最近の日本のFTA(自由貿易協定)交渉の動向について扱われていて、懸念していたことに納得が行った。しかし、それが本当に目論まれていることかどうかは知れないため、正直なところ、それを記すべきかどうかは迷うところである。
ただ、私個人として、その内容から判断されたことを記すことは可能だろうから、記させて頂く。
◇
日本は、WTOレベルでの協議が進まないことを受け、2国間でのFTA交渉を進めることを優先し、国民に対して交渉項目に関しての理解を求めることを進めていると勉強しました。私自身として、それは別に仕方のないこととして受け止めていたわけですが、腑に落ちない部分もありました。
その際、東南アジア向けのFTA交渉において、中国が(日本や韓国に比べ)その交渉国が多いことを聞いていたためです。
「そこで、何故、(韓国は兎も角、中国と)比較されるのだろう?」という疑問があったわけです。中国の場合、日本よりも東南アジアに地理的に近いわけですし、中国自身の発展を考えれば、東南アジアの国々との交渉が(日本よりも)進むのは至極当たり前のことなのですから。
そして、「その点において、日本の識者が、中国のFTA交渉の進展振りをやっかむ意味はない。」と、私は考える他はありませんでした。
◇
ただ、今回の報道内容に目を通し、日本の貿易額の内、約3分の1を東南アジアが占めていることを示されるに、納得してしまった。
EUやアメリカ、中国と今後も貿易関係を維持して行く上で、リスクヘッジをするとすれば、貿易額の3分の1を占める東南アジアとの関係を無視するわけには行きませんからね。長年に亘って、日本としても投資を行ってきた東南アジアで蓄積されたメリットを中国一国に攫われたら、日本として良いものではないのは明らかですし。
何より、日本(並びに韓国)において東南アジアは、その海路を通して、EUや中東(引いては、アフリカ)とも繋がりのある地域です。つまり、EUや中東との関係を見越せばこそ、東南アジアでの動向を看過するわけには行きません。
FTA交渉国数としては中国に続く形とはなりますが、日本としても交渉対象国数を伸ばさざるを得ないのでしょう。
ASEANに対する立場として、“+3”である日本・中国・韓国は、ASEANの後方に座すことを既に示し合わせています。その上で、その3カ国それぞれが出来ることを進めることを決めているわけです。それを考えると、“中国に続く形、”とはいえ、日本としても中国や韓国との交渉国数のバランスを図る必要があるのでしょう。
ま、一一般人の私としては、そうしたことが実際に図られているとして、現実に締結されるであろうFTAが日本社会にとっても良いものとなることを望む他はありませんが。これまでの経緯を振り返らずとも、そのために私一人に出来ることなど高々知れていますし。
◇
今日は30日。上述したことは、情報としては既に古いものかとも思ったけれど、熊谷徹さんの
「ドイツ人は日本をどう見ているのか?」(2006年11月30日更新記事)に目を通して、「やっぱり、書こう。」と思った。そのため、自身として当初に考えさせられた内容と比べれば、少し変わっている部分があるかも分からない。
ただ、私も日本の庶民で、
「日本におけるドイツ年 2005/2006」のことを知ってはいても、その機会に接することはなかった(?)一人としては、「やっぱり、俺、(田舎の人間ということもあるけれど、)一一般人なのだなぁ。」と、思わせられる他はないし。
田舎の人間ということもあり、私は、朝の満員電車や都市の過密に象徴されるインフラの脆弱さ、複雑な人間関係、組織と個人の相克、少数者差別など現代の日本が抱える問題について、その全てを体験しているわけではないのだけれども、全く知らないわけでもない。
今日の午前中、ニュースを見ていたら、エネルギー戦略としてのODA利用を図る一件を示したものを見たけれど、「え? 今までしていなかったの!?」と思うと同時に、それはそれだけの環境を得ることが難しかったことの裏返しでもあるから、私自身の経て来た教育環境と相俟って、何とも言い難い気持ちになったし。
そうした毎日の中で感じるストレスを前提とすれば、(実行に移すかどうかは別として、その)心情としては、分かることもあるのだよな。
[ 2006/11/30 14:26 ]
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一体、何を基準に平和と呼ぶのか。貧困者がおらず、富者もその驕りを捨て、謙虚に生きることの出来る世界だろうか。しかし、貧困者は、富者がいる限り、富者を支持する社会が変わらない限り、いなくなることはない。
でも、社会を動かす上で、市場経済化の進んだ社会を動かすためには、富者の力の程を真っ向から無視するわけにも行かない。彼らも人間であるから、その富を否定する方向に動けば(彼らが)攻勢を構えるのは、火を見るよりも明らか。
そしてそれは、飽く迄も社会の一側面。
言うなれば、“争い”は、なくなりはしない。そんな中で、人間の嫌らしい部分に自覚的になればなるほど、お綺麗に努めて済ました顔をすることが出来るほど物事は簡単でもない。そんなにお綺麗に努めて済ませた顔をさせたいのであれば、その人を「箱入り」の人間にするしか、方法はない。
少なくとも、昔から、そう。
◇
でも、「箱入り」のままでいることは、情報化社会の進展によって、昔に比べて段々と難しくなって来ているのが現実。
それを見越した対応をする上では、国家的イデオロギーや宗教といった(概念的に)もっと大きな箱を用意するか、または、その箱を意識させる方向に持っていくのか、それとも、その両方を叶える(実現させる)のか、といった方法が考えられる。
そして実際に、社会においては、そうしたことが行われて来ていると、私は見ている。
私自身の性情に即せば、(表層として)“聞こえている”ことに即して、“何も知らない”子どもに、変にはやし立てられる様なことはされたくはないし、それを防ぐ手段があるのであれば、可能な限りでその手段を講じたいとも考えている。
だから、人間の嫌らしい部分を(美化ではなく、飽く迄も)意識化させてくれるような動きは、私個人としては歓迎する他はない。
そのため、社会の現実については、何とも言い難い気持ちになることがしばしばある。
多くのことを知れば知るほど、自らが属する社会の通念(引いては、自分自身の置かれた現実)に依拠してしか、明確な判断基準を得がたいことを意識せざるを得ず、そのことを意識化できない人たちをも巻き込んで、事態が進んで行く。
そんな中では、仕方のないこともあるのだよな。とはいえ、その仕方のないことで、私は死にたくはない。それも確か。
社会の現実をより良い方向へと変えて行くというのは、本当に、難しいと思う。
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発信箱:露悪者の時代=藤原章生 先日聞いた、名古屋在住の吉原清隆さん(35)の短い受賞あいさつがすがすがしかった。すばる文学賞(集英社)の佳作を受けた吉原さんは緊張気味にこう語った。「きょう生まれて初めて見た(作家たち)有名人も人間なんだとわかりました。僕も人間だから……闘える、と思います」
この言葉が私に響いたのは、有名人をことのほかおそれ、ありがたがることはないと思っているからだ。言葉の重みや面白さに有名無名は関係ない。特に社会や人のあり方について有名人が必ずしも深い話をするわけではない。むしろ、庶民が持つ賢さは希薄だ。
70年代、テレビの有名人が変わった気がする。それ以前は世間知らずをわきまえ、芸域を超える発言を控えていた。ところがある時から、庶民をあざ笑うのを芸にするようになった。萩本欽一さんの「良い子悪い子普通の子」はまだ牧歌的だったが、北野武さんやタモリさんは、地方や都市周縁の人々を露骨におとしめる発言で名をはせた。
人を辱める姿には目をそむけたくなるものだが、悪意を目覚めさせることもある。そして時にその悪意が、弱者への同情に勝つ。でも、そこで迷い善意に立ち返るのが大人というものだろう。しかし、私たちはいつの間にかそのすべを失った。石原慎太郎東京都知事の少数者への配慮なき発言が許され、人気のもとにさえなっているのがその証しだ。
テレビではいまや、そんな露悪者たちが平然といじめを論じている。感覚のまひ、下品で口さがない人を好む俗物志向……。彼らを黙認する私たちは、いったい何なのか。(夕刊編集部)
毎日新聞 2006年11月26日 東京朝刊
[ 2006/11/26 16:01 ]
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今日、久々に、頭の中を(頭、ではない。)掻き毟る思いがするというか、そうした気分にさせられることがあった。
欲求としてはあるのに、その欲求を叶えることが出来ないと判断させられるとき(要は、欲求不満に見舞われるであろうことを意識するとき)、そんな感じがする。
今回の場合は、ドーハアジア大会中継による『経済最前線』の放送時間の変更が、その理由。
◇
番組HPによれば、放送予定は次のようになっているらしい。
11月29日(水)22:50−23:00
30日(木)22:50ー23:00
12月 4日(月)〜14日(木)22:40ー23:00
12月15日(金)19:40ー20:00
アルバイトの勤務予定があることは勿論のこと、家にはテレビは一台しかなく、ビデオデッキは今はあるが録画の仕様がなく、木曜日には家の事情により『春のワルツ』(NHKBS2放送)を優先させなければならない。
そして、それらを考え合わせると、11月30日、12月6・7・13・14日は、確実に見ることが出来ない。
5日は確実に見ることが出来ないという事実は、私にとって十分にストレスになるように思われた。その5日間の内、『東京マーケット情報』を見ることが出来るだろう日が2日あるのは、唯一の救い。とはいえ、それは飽く迄も、現在の見通しに過ぎない。
こういうとき、(岩間さんから離れても良い程に)岩間さんの魅力に慣れて来ている様で、全然慣れていないことを思い知らされる。俺は、岩間さんがいるから(岩間さんを、せめて見ることが出来るから)、漸く立っていられるところが大きいことを意識せざるを得ないわけである。
俺って、岩間さんの魅力に、本当に骨抜きにされているのだなぁ。
…。こんな調子では、岩間さんを大切にすることを(もっとよく)考えないと、俺は生きていけないよ。言い換えれば、岩間さんが(俺にとって)掛け替えのない人になる上で、一つのステージがクリアされたという訳か。
本当に、一体どうすれば良いのやら。
[ 2006/11/25 21:02 ]
思慕 |
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回復が進むにつれ、思い至ることがある。
その事実は、確かに掛け替えの無い、大切にするべきこと。
でも、学生の時分とは異なり、今の私は、時間的にも状況的にも、そう頻繁にインターネットを利用できる環境にいるわけでもない。だから、それを記し示すことが出来るかどうかは、(意志も絡むとはいえ)運も係わって来る。
ただ、「これは別に、今でも構わないだろう。」と、判断させられることがあったため、記させて頂く。
◇
私は、ブログにおいて、コメントやトラックバックを受け付けてはいない。更に言えば、今後として、(利用したい題材は、二三あるものの)ミクシィを利用する予定もない。
というのも、怨嗟の声などを受け付けたくはない気持ちがあることは勿論のこと、もし、私がコメントを受け付けるとすれば、その対象となる人数には数限りがないからである。
その認識を前提とし、コメントを全く受け付けないか、一部(怨嗟の声を含む)なりとも受け付けるか、そのどちらかを選ぶとすれば、私には前者が適切だと判断した。それだけ、その一部よりも、私がコメントを受け付けるべき対象の人数は絶対的に多い。
私自身において、コメントを受け付けたとしても、状況として、対応することの出来る時間が限られているのが明らかな以上、どう考えても、(私には)コメントを全く受け付けない方が適切と言うことが出来る。
ミクシィを利用する予定がないのも、それと原因を同じくする。
招待されたとしても、コメントに関してはブログと同様のことが言えるし、変に酔ったようなことを他人と言い合いたいがために、(今日として)このような機会を利用しているわけでもないし、“仲間”とは縁遠いけれども、それが必然だろうとも思う。
最近は富に思うことだが、(私自身としては、それが普通とはいえ、世間一般的な対人関係に即せば)普通からは本当に離れた人生を送っているから、寂しい気持ちはあるけれど、その背景を前提とした行動をすることには最早慣れているからね。
「慣れている」とはいっても、その中で自分がボロボロになって行っていたことにも気付くことが出来ないほど、鈍化していたわけだから、「一人の人間としては、相当危機的な状況である。」とも言える訳だけれども。
岩間さんを好きになって、その写真を身近に持つようになって(これ、初体験。私が写真を熱心に見続ければ、思念が通じて(その人をその時点に)拘束すると思って、写真を実際に得ることは問題外だったから。)、「その声や姿(存在)に、安らぎを感じていること」を、今の私は知っているから、それは無視できない。
「岩間さんは、一体どういう人なのか?」と思いを巡らせて、一喜一憂しているような毎日。世界情勢とか、政治経済情勢とか、自身の進路の絡む勉強とか、何だかんだと他にも悩むことはあるものの、それが精一杯。
多分、目下においては、それで良いのだと思う。岩間さんをテレビを通してでも見ることが出来なくなる日が来るだろうことを見込んで気持ちが塞ぐことがあっても、それ以上のことが出来るとは思えないし。
[ 2006/11/23 20:53 ]
ご注意下さい。 |
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