私は地方に住んでおり、金銭的にも自由に行動できるわけでもなかったから、世の中で一体どのようなことが行われているのかを知るために、NHKの番組に頼らざるを得ない部分が大きい。そしてBS番組を見ることが専らとなる以前には、総合・教育チャンネルに目を通すことが普通だった。
その中でも、頼りの一つとしていた番組が『土曜フォーラム』(教育、土曜の午後11:30〜翌日午前0:40)である。
もちろん、その内容としては、放送内容自体は既に以前のことであるから、時間的にリアルタイムとは言うことが出来ないし、番組を通して切り取られた視点しか得ることは出来ないから、不満に思わない部分がないわけではなかったけれども、それらを前提とした一種の“胡散臭さ”を抜きにすれば、十分に勉強になるもの。
地方の人間で、金銭的にも、番組で扱われるようなフォーラムを聞きに行くことができるような身分ではないことは重々承知していたから、その“胡散臭さ”は認めつつも無視せざるを得ないわけである。そのため、私においては未だに、世に言われるNHK問題などは頭の上を通り過ぎるモノに過ぎないのが現実である。
◇
今晩に放送されるという内容は、「豊かなる国際化へ向けて JETプログラム20年の歩みと展望」を議題としたものらしい。
NHKオンラインによれば、“「外国語教育の充実」「地域の国際化」を目的に地方自治体と国が協力しておこなっている外国人青年招致事業(JETプログラム)の果たしてきた役割と今後の課題を考える。”らしい。
目下の私は、日本の視聴者向けに編集された国際番組(BS1放送)を見ることが日常となっているわけだが、先行きの見通しが立たない中、父親には、そのことを非難されている。そしてそうした国際番組を見ていても、「お前が見ても、意味はないよ。」といったプレッシャーを受けるときが間々ある。
私自身、それは認めることが出来ても、離れることが出来ない。
自立生活支援センターで時間を過ごす間、当然の如く、そうした番組などを見ることは出来なかったわけであるが、番組を見続けて来たことで培われた感覚とのズレを新聞の記事に見出す他はなく、新聞の記事内容に目を通すことが億劫になっているわけである。
私自身、新聞に熱心に目を向けていた過去はあるから、新聞の意義は分からないわけではない。でも、身の上を前提とし、新聞では物足らなさを感じる他はなかったから、番組の助けを必要とするに至っているのであって、こればかりは、どうにもならない。
もし、そうした番組を見続けることを止めるのであれば、過去を振り返るに、今よりも、世の中の動向に対する見方が空ろなものとなることが、私として予想されるわけである。であれば、(表層として)“聞こえている”ことを意識した生活を続ける上で、一体どれだけそのプレッシャーに耐え得ることが出来るかどうかは知れない。
父親の言葉を、私自身が認識している身の上に即して解釈すれば、「日本中心主義の行動を取れ。」と言われているようなものなのだから、父親にはその意図はないのだとしても、父親の非難に対して、どうにも返答の仕様がなくなる。
◇
以前、そうしたことを意識するに悩むにつけて、就職希望先のサイト巡りをしていて、
CLAIR(財団法人 自治体国際化協会)のことを知った際には、自身がそれに従事することが出来るかどうかは別として、嬉しかったことこの上ない。
だから、
JETプログラムのことを知るにつけては、尚更と言える。
世の中って、分からないものだな。
[ 2006/12/30 11:06 ]
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今日の午前11時20分から始まった『東京マーケット情報』を見ることが出来た。大納会を終え、今年の動向のまとめと来年の動向予想について扱われた内容で、大納会の日の放送内容を初めて見る一人としては、「へぇ〜。」という感じである。
今年は、大発会の日の放送内容を見ることが出来、4月から3ヶ月間、自立生活支援センターに行っている間は見ることが出来なかったとはいえ、それ以降は見ることの出来る日は努めて見て来た一人としては、本当に感慨深い。
今年、大発会の日の放送内容を見ることも初めてだったから、「へぇ〜。」という感じだったのだけれども、それだけに、大納会が近づくにつれて、「大納会の日の放送内容を見ることが出来なかったら、流石に悲しいなぁ。」と思う気持ちがあったから、素直に嬉しい。
見ることが出来るのは、今年で最初で最後かも知れないから、やっぱり、嬉しい。
◇
今年の初め、経済動向について扱った新春の特集番組(『東京マーケット情報』ではない。)に目を通し、経済動向に目を向け続ける責任感というか、そうしたものを強く感じさせられるプレッシャーを受けていただけに、大納会を迎える日まで見続けることが出来て、嬉しい。
世界の動向として、散々言われているように、グローバル経済の変容の中、アメリカが辿って来た道に、日本もまた連なることを余儀なくされています。でなければ、次の世界を担っていく国々が、かつての日本のような国際的な位置づけから脱することが出来ず、世界の発展が停滞の一途を辿るためです。
そんな世界の潮流の中で、日本が生き残って行くためには、日本よりも後進の国が伸びて行くことが出来るように、日本は日本の色を出して、その余地を拡げつつも、グローバル経済の牽引役を担って来ている国(強いて言えば、アメリカになるのかな?)の動向に連なることが出来るような国際的な位置づけを獲得しなければなりません。
そのため、アメリカだけではなく、ヨーロッパの動向にも配慮しなければならないことは勿論ですが、中国やインドを始めとする国々の伸張を前提とした対応を図ることが出来なければなりません。そんな中で、国力を可能な限りで維持・発展させて行くことは難しいと思います。
だから、日本が国連中心主義を掲げたり、常任理事国入りを果たそうとする動きを見せたりすること自体は、その内容は別として、私には異論はないわけです。とはいえ、そんな私の見通しが的を得ているとしても、どこの国においても、生きているのは飽く迄も人間ですから、言葉で言うほど簡単ではないのでしょう。
仮に、そうした世界的な潮流があるとすれば、その潮流を崩しかねない地域・勢力は、「世界の情勢を前提として、その潮流から距離を置くことを迫られる」といった足踏みを態とさせられるわけでしょうし。その中での軋轢が一体どれほどのものかは、想像に難くありません。
裏を返せば、そうした世界的な潮流を前提として、「その潮流を崩しかねない地域・勢力」と判断される場合、その地域・勢力は追い落とされたり、素通りされたりするのでしょう。そしてその地域・勢力が特定の一国である場合、その国に生きる人たちが生き残る術は限られているのかも知れません。
歴史的な動向を振り返るに、日本は一応、その両方を経験して来ている国であると思いますから、一一般人としての身の上を思えば、日本の動向に際して本当に何とも言い難い部分は過分にあるのが現実です。
そして以前の私として、「番組を見続けること以外に、私に一体何をすることが出来るというのか?」と、クサクサした思いを抱かざるを得なかったわけですが、最近では、そうしたことさえもどうでも良いというか、「岩間さんを見ることが出来れば良いや。」という気持ちにまでなっている。
「せめて、岩間さんを見ることが出来るだけでも。」と、願う他はないわけである。
◇
もし、私の見通しが正しいのであれば尚更、私がお給金を頂く形で、その方面で出来ることはないわけです。かといって、目下の現実として、(表層として)“聞こえている”ことはあるし、それによるプレッシャーを受ける毎日に大して変化があるわけでもない。
そんな中では、そうした願いを抱く他はない。
私は、中国の「四人組」(中国の文化大革命後半において主導的な役割を担った江青、張春橋、姚文元、王洪文ら4人の政治局員。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)がしていたようなことをしたいわけではないし、誰かにさせたいわけでもないから、その位の願いを抱くことが、せいぜいなわけです。
少なくとも今の私は、それで良いと思う。
もちろん、生活レベルが維持・向上することへの願いもあるけれど、その見通しが立たない中では、そのぐらいのことしか願うことは出来ない。これでも、それまでの毎日を考えれば、結構ぜいたくな願いであるように思うけれども、私に出来ることはして来ているし、これ以上となると、私の範疇を既に離れているから、何とも言い難い。
[ 2006/12/29 15:25 ]
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高校生の頃、ホワイトカラーとブルーカラーという労働者階級の違いがあることを知った際、その違いが一体どのようなことなのか分からず、母に尋ねたことがある。辞書的な意味もよくは分からなかったから、人生の先達の一人である母に、その答えを求めたわけである。
が、上手い答えが返ってくることはなく、逆に悩まされた。
ホワイトカラーやブルーカラーという言葉は新聞に示されているため、「その読み手の一人であろう母もまた、その差異について理解しているのだろう。」と、安易に考えていたわけである。それ故に、「何故、分からないのだろう?」という疑問と、自分も含めて分からないことへの腹立たしさがあった。
というのも、当時の私として、新聞に目を通し、その特定の内容について考え、考えた末のことが記事に示されていることがあることを度々経験していたため、「人生の先達である母にして見れば、そうしたことを飛び越えた認識を有しているのだろう。」と、単純に考えている部分があったわけである。
が、この歳になり、以前よりも知っていることが増えるに、本当に馬鹿馬鹿しいというか、「よくもまぁ、あんな発想の仕方をすることが出来たなぁ。」と、思わせられる。
◇
新聞を読むからといって、それだけの時間がある場合は別として、その全てに目を通すわけではないことを考えるに、当然、各人目を通す部分は異なるわけである。それには、各人の背景に基づく興味・関心が少なからず作用する。
だから、関心がなければ、記事として示されていようが、目を通されることはなく、記事として伝えたいことは伝わらない。もちろん、それでも生活を送ることは出来るし、そもそも毎日の仕事に追われて時間が限られている以上、それでも生活を送らざるを得ない。
私は、今よりもその事実を分かっておらず、『生涯学習』を謳う文句に、素直に傾倒してしまった。
そうした過去への反省から、ホワイトカラーイグゼンプションという言葉についても、遠い出来事のような印象が否めない。父親は、「ホワイトカラーイグゼンプションが導入されれば、回りに回って、お前のような人間は今よりも生活しにくくなるのだぞ。」と、怒気を強めるが、余りピンと来ない。
というのも、中国やインドを始めとして、次の世界を担っていく国々の人々が消費トレンドを拡大させて行くためには、その重石となっているグローバル経済のシステムの変動を可能としなければならないからである。私として、「現在のグローバル経済のシステムでは、消費トレンドが頭打ちとなることが既に示されている。」と、見ているせいもある。
だから、「仕方のないことかなぁ。」と、一一般人としては思う他はない。
もちろん、「消費トレンドが拡大し、尚且つその拡大分に、日本企業が食い込むことが出来なければ、今よりも状況は厳しくなるのは確実だろう。」と思うけれども、その辺りのことは既に、日本企業だけに限られたレベルの出来事ではないから、尚のこと、一一般人としては呆けた視線を送らざるを得ない。
国が倒れないように政策運営をして貰うことを願いつつ、世界の動向が好転して行くことを願う他はないわけである。
◇
そんな一人としては、『東京マーケット情報』などに目を通し、「岩間さん、やっぱり、良いなぁ。」と思いつつ、「岩間さんに妻子がいようが、振られる以前のことでグダグダとしていようが、それはそれで仕方のないことかなぁ。」と、思う他はない。
名前も知らない人に「知ったか(何も知らない奴が、知ったか振って)。」という言葉を唐突に掛けられ、『知ったか』と言われる事実に憤ったりする毎日を送る他はない一人としては、それが限界ですよ。正直な話。
俺は俺で、自らの了見で考えさせられる範囲でしか物事を見通すことは出来ないし、それ以上のことに触れているつもりは毛頭ないわけである。「その上で、名前も知らない人に、何故、『知ったか』と言われなければならないのか?」と、憤る気持ちが沸くのは仕方のないこと。
もちろん、以前は、(その事実を前提として、)自分に出来る限りで知る努力をしていたものだけれども、今は、それも儘ならない。多分、自分で思うよりも(以前に比べて)疲弊し切っている部分があるのだろうな。
[ 2006/12/28 17:48 ]
情報・私事 |
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岩間さんは、カラオケがお好きらしい。一体どんな歌を歌われるのかどうかは知れないが、ニュースに絡んで話題として示すくらいだから、その歌唱力は一般レベルとして満更でもない方なのだろう。一方、私と言えば、鍛錬もしていないからとはいえ、歌唱力などに自信はない。
カラオケ屋さんに行くこと自体も、これまで五本の指に数え上げることが出来るくらいの数回しかない。もちろん、誘われたことがなかったとは言えないけれども、(一身上の都合に基づき)係わることを努めて避けていたこともあるし、歌唱力の程にも自信がなかったこともあり、先立つもの(お金)があるなしに関係なく、それは仕方のない事実。
であるにも拘わらず、今朝、無性に悲しい夢を見てしまった。
◇
私は、どこかのグループに属し、ある場所で談話している状況の夢を見る時がある。そのときの自分自身の身体年齢は様々と言えるだろうか。周囲の人たちと同様に、小学生ぐらいの姿をしているときもあれば、若者と呼べるような姿をしているときがあるから。
そのグループの夢を見る際には、何故か、目が覚めている状態の自我意識を有しており、(起きている時と同様に、)自らの日常に基づいて考えたり、会話したりしている。だから、その夢を見るにつけては、生々しい感情を掻き立てられることが間々ある。
今回の場合も、グループの人たちとして、日常の場では接点がないような“面識のない”人たちではあるが、彼らもまた何故か“お互いに割合よく知っている”ような感覚を抱かされる人たちであり、やはり身に迫るような感情を抱くに至った。
◇
私は、小中高と、親元で生活する中、小遣いも僅かであり、交際費を捻出の仕様がないことを意識はしても、バイトをすることも考えられなかった。小学生の頃、新聞配達をしているというクラスメイトの話を聞き、父親に(自分もしたいと)相談し、「勉強を優先しなさい。」と言われ、そのショックが尾を引いていることもある。
バイトと言われて、真っ先に思い出されるのは、そうしたことだから。
もちろん、塾通いを一応していたから、実際にバイトをするような時間をつくることは難しかったわけだけれども、かといって、交際費を捻出の仕様がないのも事実だったから、悩んだ。小遣いとして、週刊少年もののコミックを月に一冊かその位を買うことが出来るかどうか分からないのが現実だったから、それ以上を望むべくもない。
そしてその反動で、お年玉を叩いて、コミックをまとめ買いすることはよくあった。
バイトをしても問題はないであろう高校生の頃になれば、(表層として)“聞こえている”ことを巡って、恐々とした毎日を送っていたのが現実だし、とてもではないがバイトをすることが出来るような状態ではなく、それまで同様、図書館や古本屋・書店に足を運ぶのが日常と言えた。
予備校生を経て、大学生となったところで、既に生活スタイルは固定されているに近かったから、それと大した変化が見込めるわけもない。
高校生以降、(表層として)“聞こえている”ことを意識する余り、“頭の中を流行のポップスで満たそう”と考えてばかりいた頃があったとはいえ、それで優れた歌唱力を発揮できるような才能の持ち主ではないし、それも飽く迄も生活の一部に過ぎず、歌唱力を培うどころではない。
今では、(表層として)“聞こえている”ことを前提として、“頭の中を最新のニュースで満たそう”と考えてばかりいた頃を経ているため、もちろん、歌を歌うどころではない。
◇
夢の中では、グループの人たちは、それぞれが数曲の持ち歌を披露し、その場は喝采で沸くわけだけれども、その歌いっぷりが響けば響くほど、そして喝采で沸けば沸くほど、そうした持ち歌が自分には一曲もないことがうら悲しく、居た堪れないわけである。
とはいえ、そうした夢を見ること自体、以前に比べれば、精神状態が安定して来ている証拠とも言えなくもない。
というのも先日、今は忘年会の頃合であることを聞いているし、自身が何処に行こうが、または何処に居ようが、(表層として)“聞こえている”ことは付いて回る事実を受け入れることを、出来つつあることの裏返しとも言えなくはない。
それは、自分から分離可能な一部ではなく、目下において不可分な一部なのだからな。
だから、正直な話、他人にも、それ以上のことを求める気持ちはない。「求める意味はない。」と思っている部分もあれば、「求めては駄目だ。」と思っている部分があることも事実とはいえ。…。人間って、本当に不思議な生き物だな。
[ 2006/12/28 06:35 ]
つれづれ |
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以前、他人を慕う上で、その他人の感情と自分自身の感情の境が見極めにくく、それ故に、他人を求めることの難しさに悩ませられたことがある。簡単に言えば、「私自身が好きだから、その人のことを好ましく思っているのか」、それとも「その人が好いてくれているから、私自身もまた好いているのか」という境である。
今でも、その境に悩まされないとは断言できないけれども、それ故に、距離を置くことを(以前に比べれば)自らに課すことが出来るようになっている。だから、そうした過程を踏まない他人の気持ちは、正直分かりづらい。
そしてそれだけに、相手のことを何も知らないのに、感じる魅力だけで、悪く言えば衝動的に動くことは避けたいと思う。
とはいえ、今日、『東京マーケット情報』(NHKBS1放送)に目を通すに、「学生の時分は、本当に切羽詰った心情の下で生活していたのだなぁ。」ということを察することの出来る心境を得て、それまで私が煩わしく感じていた言質そのものが、馬鹿馬鹿しく思えて仕方なくなった。
もちろん、その心境を得るに至る上で、アルバイトをする中で見聞きする事々が寄与していないとは言わないけれども。
◇
私自身、“男性としての理想像”を思い描き、「その理想像に近づくことが、他人にとっても、自分自身にとっても幸せなことなのだ(そうすることで、幸せに近づくことが出来るのだ)。」と、信じて疑わなかった頃がある。
とはいえ、理想像は飽く迄も理想像であり、その理想像を実現できるような生育環境にあるわけでもなし、成長するにつれ、そもそも“男性としての理想像”に対して、窮屈さと言うか、一人の人間としての矛盾を見るようになっていった。
刷り込まれた理想像と、事実としてある(感じる)現実を前にして、その剥落具合を認識するにつれ、「俺もまた、これまでの人たちと同じことを繰り返したら、同じような結果に繋がるだけなのでは?」という疑問を得るに、そうではない生き方を求める気持ちが強くなって行ったわけである。
だから、そうした過程を経て、(全く同じとは言わないが、)同様に悩んで来ている人たちの気持ちは分からないわけではないし、かといって、それにズブズブと浸って、変な方向に走りたくはない(走らされたくはない)気持ちもある。
今では、以前において絶望のままに感じていた(自らを取り巻く?)社会的障壁に対して、「その上っ面に基づく情報しか、得ることを、今よりも許されてはいなかったのだなぁ。」と、諦観の態度を示す他はない部分もあり、怒りとも哀しみとも呼べない視線を送らざるを得なくなっている。
「大衆社会・情報社会・技術革新という新しい社会情勢」を前提に、1986年12月に国連で採択された発展の権利(
*)があることを知るにつけては、尚更。実生活を前提として、私が情報社会を具体的に思い描くことが出来るようになったのは、ここ数年来のことだから。
*人間こそが発展の受益者であると同時に主体でなければならないという考え方に立って、発展による利益の享受を基本的人権であるとする。(『公務員試験速聴マスター 聴きながら覚える社会科学・人文科学』より参照。) それまで、一方向としての情報社会は思い描けていたけれども、この意味を含む双方向の情報社会を思い描けてはいなかった。(06/12/28追記) 岩間さんと言わず、他人を慕い続けるどころの問題ではないのだよな。
でも、少なくとも今の自分において、岩間さんが魅力的であることも事実なのだよな。一体、どうすれば良いのだろうなぁ。
[ 2006/12/26 18:00 ]
思慕 |
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