皇民 

 下記参照の記事に目を通して、時間はないものの、触れるべきかと思ったため、記すことにする。

 集団自決については、元々、「他国の捕虜になった場合、大日本帝国の恥になる。または捕虜として、大変な目に遭う。」というのが理由だったように記憶している。他国の人たちに悲惨な目に遭わされるよりは、自決した方が良いことが言われていたわけである。

 だから、集団自決を強制した人たちがいても何ら不思議ではないし、そうした雰囲気となり集団自決した人たちがいても不思議ではない。

 そしてそれは、別に、沖縄に限ったこと(現在の日本国の領土以外にも、日本人は「皇民思想」の下で占領地に植民していたからね。)ではなかったと思う。
[ 2007/03/30 21:54 ] 情報・私事 | トラックバック(-) | コメント(-)

納得 

 「人間の感情が故。」と割り切って良いものかどうか知れないが、岩間さんを好いているとはいっても、その気持ちを自身として支持するのは辛いものがある。

 というのは、その時々に感じる気持ちのブレを、中長期的に意識させられるに、「俺、やっぱり、自分以外の多くの人たちの感情・意識に左右されているところが大きいのかも知れないなぁ。」と思うからである。そしてそれは、岩間さんに関しても言えること。

 今では、その事象に対して、ある程度は距離を図れるようになっているとはいえ、それは依然として変わることはない。
[ 2007/03/30 20:39 ] 思慕 | トラックバック(-) | コメント(-)

政治的合理性 

 今日の午前中、『協力者』(2007年3月29日更新記事)という記事を記したのだけれども、先ほど、何ともなしにNHKオンラインの記事に目を通したら、下記参照のニュースが記事として示されていた。そしてそれにより、「今日、具合が悪いのも、こうして時間を過ごすことになっているのも、このせいなのかなぁ…。」という疑問が頭を過ぎった。

 私は別に、軍人さん一般を好いても嫌ってもいない。国の都合でバタバタと人が死んでいくのは、一身上のことを考慮すれば、私にとって都合の悪いことだから、戦争がないのであれば、それに越したことはないと思っているし、理想かも知れないが、そうした世界を希求することは大切だと思う。

 でも、私が人間の一人に過ぎないことは、一日本人であることは、社会的階層として下の方の人間の一人としては、それらの事実を無視した言動をしたいわけでもないし、「そんなことは出来ない。」と思う。臆病とかそうでないとか、そうした精神論・観念論のレベルではなく、事実としてそうなのだから、それを受け止めて行動できるようになる他はない。

 だから、その人その人がすることに対して、私にはこれといった言葉を掛けることなど、本義的に出来るものではない。一個人として思うことはあれ、それ以上のことをしようとは思わない。一時期は、一個人として思うことも否定しようとしたけれど、それが自身にとって良い結果を齎すとは限らないことを意識させられたため、それから離れることを肯定した後として今日に至る。
[ 2007/03/29 15:10 ] 情報・私事 | トラックバック(-) | コメント(-)

協力者 

 既に一年ほどが経つのかも分からないが、若しくはこの一年内において目を通した民放のニュースにおいて、靖国神社にA級戦犯()が合祀されるに至った経緯が扱われていて、大変勉強になったことを記憶している。

ニュースのVTRを見ていて、今回提示された資料中において、A級は積極的戦争協力者、B級は消極的〜、C級は一般的〜とされていたように思う。もしかしたら、戦争協力者ではなく、戦事協力者、もしくは別の言葉だったかも知れない。

 ただ、その際には、旧日本軍の“残党”の人たちの影響が色濃かったことを意識した報道がなされていたようにも記憶している。その番組も一定の資料に依拠した内容であることが示されていたが、今回のようにNHKも扱うようなことは、記事にもあるように初めてなのだろう。

 そして、それだけなら、少ない時間を割いて扱うことは考えられなかったのだけれども、同様の事例を扱う韓国KBSのニュースに目を通していて、忘れない内に記す必要を意識させられた次第。
[ 2007/03/29 10:53 ] 情報・私事 | トラックバック(-) | コメント(-)

沈着 

 最近、以前よりも目移りすることが多くなっているように思う。正確には、パソコンやテレビの前にいる時間よりも、外にいる時間が格段に増え、テレビの見方も変わって来ているため、目に映る人の数が格段に多くなっているわけである。

 “聞こえている”ことを考えれば、その人の名前を知ることはなくとも、そういう人がいるという認識を重ねて行くことは、願ったり叶ったり。以前の私として、実生活面において、一体どういった人がいるのかを知る上で、まずは名前を知ることを前提とした認識のために、悩まされていたから。

 名前を知らずとも、どんな人がいるのかを知ることが出来ることは、有り難い。

 御蔭で、“聞こえている”ことを理由として、その方向でしか意識できないことも、別の方向から(以前よりも)意識することが出来るようになっているし、「やっぱり、バランスって大切だなぁ。」と、思う他はない。「私は誰? ここは何処?」といった意識とも、以前よりも距離を図れるようになっているからね。
[ 2007/03/23 14:25 ] 思慕 | トラックバック(-) | コメント(-)