この3日間を通して、先日に
『BS世界のドキュメンタリー』(NHKBS1)枠で放送された「アメリカ ニュース報道の危機」に目を通すことが出来た。時間の関係で、本放送時には目を通す機会はなかったのだけれど、再放送ではあるが目を通すことが出来たため、嬉しかった。
出来れば感想を記したいのだけれど、ブログ上ではなく、
HPの番組ページにその内容は記す予定。すごく刺激的ではあったとはいえ、その内容を考えると、ブログ上に記すには流石に気が引けるから。
それはそうと、日本では参議院選挙があった。私も投票したけれど、そして尾辻さんに投票したけれど、
尾辻かな子さん落選「これが日本のLGBTの現実」(2007年7月30日更新記事)に目を通し、人によっては失礼な表現かとは思うが、「“当選ラインの68,000票には届かず、得票数は38,229”というだけでも、十分に評価できるのでは?」(
*)と、思う他はない。
*尾辻さんは「〜を集められれば、当選圏内の15万票は獲得できる」としている。その3分の1にも満たないとはいえ4万票をあと少しで窺うことが出来る票数であることを前提として記しているに過ぎない。有権者も馬鹿ではないから、LGBT関係者であろうがなかろうが、票を入れない人は入れない。(07/07/31追記)
◇
私は地方の人間であり、尾辻さんの活動の御蔭で自治体レベルでのLGBTを含めた人権計画への取り組みが必要とされることを知ったのだけれど、そうした人権計画自体が、私にとっては、雲を挟んで遠い空をパタパタと飛んでいる紙のようにしかイメージ出来ない。
人権計画と言葉で言うのは容易いが、
人権を守るとなれば、その言葉の前提として想定される人たち(飽く迄も生きている存在)の要求に応えることを視野に入れる必要がある。そして私として、「国を始め各自治体の財政状況が厳しいとされる中、それだけの(経済的・社会的な)余裕があるの?」と、単純に思ってしまうわけである。
語弊はあるかも知れないが、私でさえ、そうなのだから、他の人たちとて、似たようなものか、(どちらかと言えば進んでいる人たちの認識に比べれば)それほど大差ない認識なのではないのだろうか。
だから、尾辻さんの活動への認知が進んでいるとかいないとか、そうした問題ではないように思う。
もちろん、望月代表の「LGBTの権利擁護が進んでいる海外の国々に比べて、日本にはLGBTの大きな支援団体がなく、LGBTの権利や政治をとりあげる雑誌やLGBT情報サイトが少ないため、知名度が思うように上がらなかったと思う」という言葉に示される事実に繋がることを否定はしないけれども。
とはいえ、私の目から見ても割合まともな活動を行っていると判断される
「すこたんソーシャルサービス」(元・すこたん企画)であっても、あのような状況・状態にあるのだから、「尾辻さんの活動への認知云々の問題には止まらない。」と、思う他はない。
確かにLGBTの可視化を訴える活動も大切であることは事実だけれど、「その辺りのことを無視したような言動が過ぎると、逆に票は逃げてしまう。」と、私は思う。
◇
そもそも、尾辻さんの“結婚”に際し、太田知事(大阪府)から祝福があったそうだが、「彼女が“結婚”を祝福した理由の一つには、その辺りのこともあるのでは?」と、私としては考える他はない。
太田さんは、“ふるさと納税”という名目の下で大都市圏から地方へと不用意にお金が流れて、大都市圏の地域サービスの質が低下することを懸念する人たちの一人。私にしろ誰にしろ他人が、その事実を前に、そのように考えることを全く考えていないわけではないだろう。
少なくともその辺りのことは冷静に見定めることが出来ないと、参議院選で当選して議員になることが出来たとしても、国会議員としてやって行くことは出来ないのではないかと思う。それでは、当選してLGBTの可視化の切っ掛けを得たとしても、政治的には何にもならない。(
*)
*政治的に影響を与えるためには、一度限りの当選では意味がなく、その候補が当選し続けるための票田の確保が迫られます。そしてそれが得られて初めて、LGBTの可視化と言わず、それを含めた施策を練り上げて行くことが可能性として出て来るわけです。(07/08/07追記) それ故、「もし、その辺りのことをクリアできると傍目にも判断できるようであれば、別にLGBT関係者でない人たちも、票を入れてくれるようになるのではないのかな?」と、私としては期待する。ま、私がこんなことを書かなくても、尾辻さんは十分過ぎるほど分かっているのかも知れないのだけれどさ。
ただ、地方の人間の一人としては、得ることの出来る情報が少ないことを自覚する一人としては、そうしたことは考える。それだけのことを、つらつらと書いてしまって、不快に思う人は思うのだろうけれど、仕方ないよな。こういうの。
[ 2007/07/30 22:39 ]
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今日、『BAROQUE』(バロック)なるゲームがあることを知った。
Wikipediaで調べたところ、SS版が発売されたのは1998年5月21日、PS2版が発売されたのは2007年6月28日らしい。そして、その内容をざっととはいえ知るにつけ、複雑な気持ちになった。
というのも、その内容が、私がこの体として生きて来る中で得た(想起された)記憶の一つとして悩まされたことに、類似する内容だったから。それが初めて発売されたのが98年ということもあり、その作成期間を含めて考えると、何とも言い難い気持ちになる他はない。
と同時に、予てより、何故か私個人としてそれを文章化することが出来ず、それが不思議だったのだが、その理由に納得が行った。私の気持ち以前に、ああした形で既に商品化されているとなれば、私が私であることを理由として、文章化するのは無理だから。
◇
以前、その記憶の内容を前提として私が知ったのは、「出来るのであれば、今のような状況(
*)を導いて欲しくはない。」ということ。今考えると、「あの時代に生きる人たちの一部の人たちの意見なのかも知れない。」とは思うけれど、当時は、それを素直に受け止める他はなかった。
*この言葉は、当時(現在を基準とすれば一つの未来)の人を基準とした言葉。そのため、“今のような状況”という表現を用いさせて貰った。最初は、便宜上“同じような状況”としたのだが、正確さを期すため、訂正した。 だから、「将来的に、あのような状況が導かれて欲しくはない。」という気持ちを、私個人として得ているため、『BAROQUE』なるゲームの存在を知った際には、「気に掛けてくれている人たちが、ちゃんといるのだなぁ。」と、素直に嬉しかった。
その記憶を得た(想起された)とき、俺自身、「あのような状況が導かれて欲しくはない。」と思い、「一体どうすれば避けられるのだろう?」と考えたけれど、一個人に過ぎない私に何が出来るとも思えず、(その気持ちを言葉にするのであれば)“悲しかった”から。
でも、それに前後した頃か、その悲しみが明らかに軽減した。数年前にも、再び想起した際、同様のことが見られた。その理由が一体どのような背景に基づくものなのか、私は知ることはなかったのだけれど、それに漸く納得の行く答えを得ることが出来た。
全年齢向けのゲームとして商品化されており、当初の発売から約9年ほどの期間を経てPS2版まで発売されるものであれば、私としては、最早納得するしかない。(念のために記すが、このゲームに際し、お金を貰ってはいませんよ。)
◇
正直な話、私がクリエイターになることが出来たとして、それで食べて行くことが出来るような人間であれば、このゲームに際して、「アイディアを踏襲された。」と、非難するのも有り得ること。
でも、私はクリエイターになることが出来るような人間ではないし、そもそも、(その記憶に際したことで得た)私の目的の第一義は、それにより生活することではなく、どのような経緯・方法を得るにしても、あのような状況となることを可能な限りにおいて防ぐことを自らに求めること。
それを考えると、「アイディアを踏襲された。」と、非難するのは、頂けない。
もちろん、生活を考えれば、過去として悩まされて来た記憶の一つだから、相応の見返りを求める気持ちがないとは言えない。でも、その気持ちを得たところで、何が変わるというわけでもない。寧ろ、私の目的の第一義に反して、悪い方向へと向かわせる怖れもある。
それを考えれば、「仕方ない。」としか、言い様がない。
お金のことを考え始めたら、この人生って、本当に詰まらない人生です。だから、変な誤解はしないで下さいね。別に考える必要がなくて(それだけのお金があるから)考えないのではなく、考えても意味はないから、考えないようにして来ているだけ。
以前であれば、それを矜持とするだけで良かったのだけれど、私も相応の年齢であり、それに甘んじ続けるわけにもいかないことを認識させられて来ている。かといって、この体であることは避けられない。「その辺りのことを、誤解しないで貰いたい。」と、私としては願う他はない。
尤も、こうした思考を得ることが出来るのも、本当に久しいことで、(恐らくは「揺り戻し」によるものだろうが、)以前としてそうした思考を得ていたことも忘れてしまっていた。岩間さんのことを好きになって、少しずつとはいえ経済のことを勉強して来る中で、漸く、再び得ることが出来た思考。
我ながら、その事実が、悲しいし、もどかしい。でも、この体である以上、それは仕方ないこと。そう割り切るしか、俺には出来ない。
[ 2007/07/28 22:52 ]
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食欲、性欲、睡眠欲と、数多くの欲求の中でも“3大欲求”と呼ばれるそれらの欲求があることは名高い。認めようが認めまいが、余程のことがない限り、人間はそれから逃れることが出来ない。
そして私は、以前において、そうして欲求を抱くことを前提として、一体どうすれば無難に過ごすことが出来るのか、悩んだ。
というのも、「もし、そうした欲求を抱くことなく、またはそうした欲求を抑圧された状態で、何時までも卒なく過ごせるのであれば、それに越したことはない。」と思う一方で、「そんなことは、一時的であれば兎も角としても、人生に亘っての期間となれば、有り得ない。」と、思ったから。
もちろん、そう思うだけで何もかも解決するのであれば、誰も悩まないわけである。それ故、途方に暮れる他はなかった時分もある。
◇
今日として、以前において悩んでいた頃ほどの具合ではないものの、自己嫌悪というか罪悪感というか、そうしたものが皆無となるまでにはなっていない。
確かに、意識するようになって以降それなりに時間を経ているから、意識し始めた頃よりは、大分と楽になっているのだけれど、回復が進むにつれて対象化の度合いも深まって来ていることもあり、それだけを理由として単純に喜ぶことが出来なくなっている。
欲求は欲求としてあるものの、食欲、性欲、睡眠欲それぞれを通して感じる具合が異なるのは相変わらず。もちろん、以前よりは知っていることが幾らかは確実に増えたから、それへの耐性を培うことが出来てはいるものの、それ故に(その影響を考え)「怖い。」と思うことは避けられない。
とはいえ、耐性を培うと共に、自分に出来る限りにおいて、その外堀を埋めるように努めて来ているから、ただただ「怖い。」と思っているわけではないのだけれどさ。
でも、私は所詮一個人に過ぎないし、飽く迄も人間の一人に過ぎず、一一般人に過ぎない(人によっては、「一般人ですらない。」と言うかも知れないけれど。)から、それぐらいのことしか出来ない。
だから、それ以上のことを求められても、正直閉口する他はない。
とはいえ、以前の私は、「正直閉口する他はない」という事実を受け止めることも難しかったわけで、ここ数年来において培って来たことが自身の血肉となって来ていることに気付かされる。
社会生活を考えれば、(父親には、雑学にばかり関心があるとして、散々非難されて来ていたし、)無駄に時間を過ごして来た印象が拭えないわけではないけれど、こういうとき、「これまでのような経緯を辿る他はなかったのだなぁ。」と、しみじみ思う。
そして、「もし、これまでのような経緯を辿っていなかったら(良い意味で、辿る必要がなかったのであれば、それに越したことはないのだが。)、今よりも不安定な状態に身を晒していたのかも知れない。」と、思う。
今月、ミレニアム開発目標(MDGs)の中間報告が出されたそうだが、その中間報告をして示された事実の影響を受けているにしか過ぎないのかも知れないけれど、今は、そう思うことが出来ることを(単純に喜ぶのは無理とはいえ)喜びたい。
[ 2007/07/26 18:05 ]
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事情をよく知りもしないで、人間は言うことを言うことを知ったとき、「その事情を知るためには、一体どうすれば良いのだろうか。」と思った。典型的な方法は、その人が置かれていると推測される状況を追体験・疑似体験することで、想像を膨らませ、一定の心構えを得ること。
でも、個々人それぞれ生きているわけだから、皆が皆それを可能とするわけではない。
だから私は、「“知らない。”ということに対して、謙虚であるべきなのだろう。」と思う。
その一方で、「脳の活動のためには、事情をよく知りもしない(理解しない)からこそ、様々に想像することで、情報を付加して行く行為も避けられないこと」を知るが故に、一体どうすれば良いのか悩んだ。
この体として生きて行く上で、一体どちらに準ずることが適切な行為なのか、分からなかったから。
◇
今でも、正直分からない。正確には、悩んでいた頃よりは幾分考えるようになったとはいえ、相変わらず、“知らない。”ということに謙虚になろうとする心持ちもある。
とはいえ、私が辿った過程に近似した過程を得ている人が一体どれほどいるのかなど知りようがないし、そもそもそうではない人もいることを念頭として動かざるを得ないから、対人関係として一体どうすれば良いのか、更に悩ませられる。
社会的には、理想的には、それで良いのかも知れないけれど、対人関係に際しては、それは些か非現実的であるように思うから。
これまでにおいて、そうしたことに悩んで来ていることを前提とすれば、そうした悩みを抱くことを知っているのか・知らないのかは私には知れない人たちに対して、どうのこうのと言うべきことはない。
事によっては、俺も馬鹿であることを露呈するだけなのだけれども、事によっては、その人たちも馬鹿であることを露呈するだけなのだから。
とはいえ、「人間それで何もかも収まるほど賢くはない。」と、思う他はないことも事実。
俺は正直、そっちの方が怖い。
しかし、それへの対処法をこれまでに学ぶことが出来ているかと言うと、自分でもよく分からない。自分なりに気を付けて来ていることはあるものの、私もまた人間を超越している存在ではないわけだから、それに際した自信など持ちようがない。
仮にも若者であるが故に、私はそれを何とか肯定出来ているが、歳を重ねる中で今のような状態が続くとなれば、肯定し続けることが出来るかどうかは疑問。本当に若者であることが出来ているのかどうか不安なように、良い意味で歳を重ねて行くことが出来るのかどうか不安がある。
精神年齢云々以前に、将来的に生活して行くことが出来るような人間になりたいから、そうした不安があるからこそ、当然するべきことはあるものの、自分にとって一体何がするべきことなのか、再度分からなくなりつつある。変わって行くことが出来ていることは分かるだけに、何ともはや。
以前は、“聞こえている”ことを前提として、下手に自分の域を限定してしまうと、“過渡期”とされる今をそうではない状態にしてしまう懸念があった。が、自分なりに情報に目を向ける努力をし続けたところで、社会的なメリットは何もなかったから、別に限定しても社会的には何の問題はないのだろうし、俺が今後として非難される理由はない。
俺に出来ることは既にした。
だから、その次としてすることが分からないのも当然と言えば当然なのだけれど、今の気持ちを上手く表現できる言葉が見付からない。それがただ、もどかしい。
[ 2007/07/23 23:16 ]
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食中毒による病状(並びに、その後の症状)の快復が見られました。と、言いたいところだが、目下としてよく分からない状態にある。
先日には、柔らかそうだったが、形の整ったウンチが出たかと思えば、その次の日には、細長い形を得てはいるが、消化不良であることが見て取れる形状のウンチ。その次の日には…、といった感じで、よく分からない。
昨晩は、お茶で粥状にした御飯と、酢の物、白菜の浅漬けなどを食べたのだが、今朝のウンチの状態を見るのを忘れてしまって…。
先日、「もう大丈夫だろう。」と思って(普通の)カレーを食べ、それが腹に来てしまったのだが、その二の舞は踏みたくない手前としては、やはりどうも、よく分からない状態としか。…、もう少し様子を見る他はないか。
[ 2007/07/22 18:03 ]
つれづれ |
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