今日、『7SEEDS』(田村由美/著)の11巻(最新刊)を購入し、読了した。収録されている内容は、立ち読みする機会を逸しているものが多かったから、素直に嬉しかったものの、その内容が故に、勉強にもなった。
そしてその後、
ゲイジャパンニュースの
『ロシア正教会教父 学校教育では「不幸な同性愛者と老いゆく売春婦を見せるべき」と発言』(2007年8月31日更新記事)に目を通すに、複雑な気持ちになったことは言うまでもない。
その理由の一つに、先日に放送されたRTRにおいて、ロシア正教会の方が「宗教家が政治的に重要なポストに位置づけられることはない。」と明言されていたことがある。彼は同様に、そのようにテレビ(RTR等)で扱われるほど注目されることへの懸念も示されていたように記憶しているから、尚更。
共産党体制において、その支配体制を否定する要因となるものは、当然排除されなければならない。だから、歴史的な事実として、ロシア正教会にもその矛先を向けられたのは、私として分からないではない。それ故、それに絡む今日的な事実について、私は言葉を尽くすことの出来る理由はない。
◇
とはいえ、ロシア正教会の広報担当であるチャプリン教父が示した内容と同様のことは、アメリカを始めとする先進諸国においても進められていたことに他ならない。それ故、今回の発言内容に殊更に目くじらを立てるのも、私としてはどうかと思う。
私が同性愛者を巡る動向に今よりも注意を向けていた中で知ったのは、「同性愛者は滑稽で不幸な存在であること」が映像(メディア)を通して刷り込まれて来ているということ。つまり今日として、同性愛者に際して、ともすれば“二流市民”と言われるが、それでもまだ理性的な表現の内にあるということ。
そうしたことを考えれば、チャプリン教父をして示された内容は、先進諸国が経て来た道程を鑑みれば、分からないではない。でも、エイズの問題を考えると、「ロシアにおいて、同じような道程を強いるべきではない。」とも思う。
そうした道程により、同性愛者が社会的な位置付けを得る切っ掛けを模索することが可能とはなったが、同じくしてスティグマ化されることで、同性愛者らを巡るエイズ問題が深刻化したことも知られている。それを考えると、「ロシアにおいて、同じ轍(てつ)を踏ませるわけにはいかない。」と、思う他はない。
ただ、事は少子化対策も絡むことだけに、悩ませられるのも事実。
◇
大国としての研鑽を積むロシアにおいて、将来を鑑み、少子化対策が進められている。そして、同性愛者の人権保護を求める動きへの規制があることは否定仕様のない事実。かといって、人々をして少子化の問題と同性愛者の存在が結び付けられているわけではないことも事実。
先日、ロシアにおいて同性愛者の人権保護を求めるデモが行われ、それへの公権による規制の模様がメディアで扱われた。そして対比的に、異性愛者であることを尊重するデモについても扱われたわけだが、これは同性愛者の人権保護を求めるデモとは打って変わって、その参加者は極々少数。
その事実は、人々をして少子化の問題と同性愛者の存在が結び付けられているわけではないことが示されている。
既に一年は前になるのかも知れないが、その頃に目を通した記事において、プーチン政権下で経済発展が進められ生活が豊かになって来ている人たちはいるものの、少子化対策の前提となる保育・育児支援の程度はまだまだ低いことを知った。
人々も馬鹿ではないから、その事実を認識していないわけではないのだろう。それを考えると、同性愛者や売春婦は不道徳として、彼らに少子化問題の責任の全てを押し付けるとなれば、体の良い当て擦りに他ならないだろう。
ただ、何も手を打たず放置したままであっては、
「〜、30年以内に子どもたちは、物理的欲望と不節制の熱狂に影響され、動物と化すだろう」と懸念されることが現実のものとなる可能性も、私として分からないではない。
先進諸国らの同性愛者にしても、社会的にスティグマ化される中であっても、コミュニティから踏み出して家族として家庭を築くことに取り組まれている人たちがいるのは事実。とはいえ、そうした人たちばかりではないことも事実だろう。となれば、広報担当のチャプリン教父をして示される懸念が全くの的外れとも言い難いのだから。
とはいえ、注意も必要だろう。というのは、そうして家族として家庭を築くことに至らない人たちの心情の一端として、彼らの家庭環境・生育環境が恵まれなかったために、「同じような事をしたくはない。」という懸念があるため。そしてこの点は、同性愛者に限ったことではなく、他の一般の家庭生活においても言えることに他ならない。
そこまで考えれば、同性愛者や売春婦の存在を殊更に問題の的とするのではなく、まずは、そうした家庭環境・生育環境を整えることに努めるべきであって、悪戯に社会的な非難の度を強めるようなことをするべきではない。下手をすれば、動物と化す時間を早めてしまう。
少なくとも私は、そのように考える。
不幸とか幸せとか、そうしたことは当人たちが決めるべきことであって、一方的・強権的に決められたままに生きる必要はないと思う。でも、そのためには、一方的・強権的足る存在である国や社会の存在を無視は出来ない。国や社会が成立しないところで生きているわけではないのだから。
複雑な気持ちになるわけだよな。(07/09/02追記)
[ 2007/08/31 21:33 ]
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正直、こうして曲がりなりにもブログを利用することの出来る身で、“poverty line”に関して記すことは躊躇われたのだが、ここ一両日中に目を向けた内容について考えるに、記した方が良いかと思われるため、記すことにする。
生活を考えれば、私が品性を疑われるようなことをしたところで、本当は問題はない。別に、品位を求められるような立場の人間ではないのだから。でも、それを事実として認識しながらも、これまでにおいて、それに徹し切れていない自分もいる。
「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるが、恐らく、そうした言葉の前提にあることを背景の一つとして育って来たせいもあるだろう。が、私は武士ではないから、当然というべきか、それに反発を示しつつ、育って来てもいる。
下手なプライドは、自らを律するどころか、他人を蔑む原因にしかなり得ない。恐らく、日々成育する中で、それを分かっていったがためなのだと思う。そしてそれが故に、未だに迷うのだとも思う。
◇
昨晩、『きょうの世界』(NHKBS1)に目を通していて、アメリカでは、年収2万ドル(時給10ドル)以下の世帯が貧困世帯と見なされており、年収2万ドルかどうかの線が“poverty line”なのだという。
その基準に従えば、私個人が一人暮らしをするとなれば、明らかに貧困世帯の一つに数え上げられることになる。
それを受け、「果たして、そんな人間が、今以上に時間を犠牲にしてまで、世界の出来事に目を向ける意味はあるのか?」と、正直思わなくもない。要は、「他人の品位を問うたり、自身に品位を求める理由など、ない。」と、思うわけである。少なくとも、その事実だけに基づけば。
そして「それで十分だ。」と思う気持ちがある一方、今朝に放送された『おはよう世界』(NHKBS1)を見逃したことに際し、罪悪感とまでは行かないが、落ち着かない気持ちになったことは事実。私として、それを一体どう扱うのか。
◇
私が世界の出来事に目を向ける必要性を意識しているのは、大義名分があるわけでもなく、金が絡んでいるわけでもなく、飽く迄も個人的な理由に基づいている。それだけに、我ながら、迷わざるを得ない。(こういうのも、「タダより高いものはない。」と言うのだろうか?)
その個人的な理由にせよ、軽く無視できるものであれば、これまでのように意識するに至ってはいないわけであり、そうではないからこそ、迷う。
私もまた一人の人間であるから、私個人として考えることは考える。そして“聞こえている”ことにより、それは少なからず他人に伝わるわけであり、他人もまた人間であるから、その他人個々人として動くように動くわけである。そして私には、それを止める権利や権限などはない。
それが紛れもない事実として認識している以上、私個人として取り得る行動は、私個人を可能な限り希釈化するかどうかするなりして、社会システムに沿う形で適正化を図ること。でも、今日として、私に取り得るそうした行動は、社会的・個人的に不具合を有するものであることを認める他はない。
その行為が行き過ぎれば、私自身において、自らが社会的行為を必要とする人間であることを無視することになってしまうから。ともすれば、それは、悪影響を招く。アルバイトをする中で、それは補正されて来てはいるけれど、まだまだ十分ではない。
というのも、日本においての生活に近しい部分は、そうして努めて行くことは出来るものの、私が影響を受けているのは日本だけとは限らないことも認識させられているからである。そしてその帳尻を合わせるためには、日本国ではない国々のことにも可能な限り目を向ける必要がある。
私は一般人に過ぎないわけだから、身に過ぎた変なことを求められたり・言われたりしても困る以上、そうして可能な限りにおいて目を向けて、私自身に可能なことを精査し続ける必要があるわけである。少なくとも、「そうすることでしか、私は自分自身を確立していくことは無理だ。」と考えた。
存在が肯定的に認知されるためには、それだけの成果を示さなければならないことは事実。かといって、私には、私自身における「それだけの成果」というものが一体何なのかは知れない。そして寿命を全うせずに死にたくはない以上、そうしたことを意識せざるを得ない。
が、そんな私の生活が社会的に保障されているわけではないことも事実。真面目な話として、そんな中で、具体的にその手の行動を図ることが出来る人たちと同レベルのことを求められる理由など到底ないわけである。
かといって、成育の過程において、そうした恵まれた人たちの辛酸というべきか、雑多な事事への理解を(幾ばかりかかも知れないが)求められて来ていることも事実。少なくとも、目を向けるものに目を向ければ、そうした情報で溢れている。そして、そうした事実から垣間見える社会的現実を無碍にも出来ない。
そうしたことを考えるに、迷うのが普通だとも思うけれど、答えを出さないといけないような気持ちにもなるのだよな。相変わらず。…、やはり、知ることの出来ることは、知る努力をしないとな。
[ 2007/08/30 12:57 ]
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安倍首相の、「安倍」という姓。「あべ(Abe)」という音で覚えるだけで、その漢字までは無視していた。が、先ほど、指摘を受け、「安倍」という漢字に訂正。
漢字を間違えたまま放置していたのかと思うと、冷や汗ものだよ。
[ 2007/08/28 19:48 ]
つれづれ |
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先日、安倍首相がインドを訪れた際、安倍首相は四国(米・日・豪・印)連盟構想なるものを提示し、インドのシン首相に参与を求めたらしい。が、シン首相は、それに対する返答は保留したらしい。恐らく、政治的に適切な判断だったと思う。
インドと中国との関係は、最近は良好であることは伝えられるものの、それは、お互いの経済発展が前提にある関係に他ならない。そして東南アジアの東西回廊(日本と中国の出資により、東西に交差する道路網が整備された。)周辺の発展を進めるとなれば、インドと中国との関係が良好であることは必要不可欠。
中国にしろ、日本同様欧米に目を向けてはいるが、それだけに、自国の発展は基よりアジア地域の発展を堅実なものとすることを否定するわけではないだろう。正確には、アジア地域が今後どうなっていくかの鍵の一つを、中国が担っていることは否定しようのない事実。
中国も、それを認知しているとはいえ、日本においてアジア太平洋地域に座した展望を抱き易いことと同様に、どちらかと言えば、ユーラシア大陸に座した展望を抱くことを余儀なくされる。それ故、上海協力機構(SCO)が結成されるに至ったのも、何ら不思議なことではない。
各国としての思惑もあろうとはいえ、そうして動いている事実があることは、評価するべきことには違いない。
◇
国家統治を進めるに当たり、経済発展が進む中で、人々の価値観の多様化振りを許容することを迫られるようになる面が出て来ることは否定できない。中国の場合、目下においては共産党体制がその体裁を整える手段となっているが、今日として露呈されているように、何時になるかは分からないが将来的には、共産党体制からの移行も見越す必要がある。
果たして、共産党体制下で、そこまでの移行を果たすことが出来るようになるのかどうか。もちろん、当局として、その自覚があるのだろう。でなければ、住民との間での問題が取り沙汰されるほど、ああも急ピッチでの土地の再開発を進めたりはしないだろう。
しかし、その過程において蔑ろにされる事事が降り積もれば、その分の火種もまた蓄積されることになる。今は、北京五輪(オリンピック)や上海万博を見込み、気運を高めることが出来ているらしいが、その後として果たして一体どうなるのか。
北京五輪や上海万博において成功を収めるに当たり、先進国の仲間入りとなることが予定されていることを、大学の頃に勉強はしたけれど、先進国の仲間入りを果たしたところで、その際には、先進国としての振る舞いを求められるようになることも事実。
今日において、中国産の食品や玩具などに際して問題が取り沙汰される際、中国が発展途上であることを引き合いにも出されるが、各国としてそれを分かってはいても、世界における中国の存在を無視も出来ない以上、各国をして中国に苦言を呈することも避けられない。そして中国も、それを分かってはいるけれど、悪意があるかのような海外メディア報道には苦言も呈したいだろう。
そうした事実がある上で、国民レベルでの信頼構築を進める必要性を否定はしないが、中国としては四国連盟に関して一言なりとも述べたい気持ちがあるだろうことは分からないではない。安倍首相がシン首相に参与を求めるとなれば、恐らくアメリカの一部なりとも了承済みなのだろうから。
私個人としては、「中国がアジア太平洋地域への視座を、日本との資源問題や領土問題に関係なく深める上では、連盟に参与するに至ることは何ら問題はない。」とは思う。でも、今日において日中の間で資源問題や領土問題があることは事実であり、目下においては連盟への参与が難しいことも分からないではない。
ただ、
これまでの経緯(これまでも、資源問題や領土問題はあるものの、まずは環境問題を重視する姿勢を表明している。)を考えると、中国側も、それは分かった上でのこと。となれば、何故、それを憂慮する旨を示したのか。私として、このことを知ったとき、中国の人たち向けだけの言葉とは到底思えなかったから、そうした疑問は抱く。
というのも、実のところ、私は、四国連盟のことについてNHKBS1で先日に放送されたCCTVで知ったのだけれど、同日の通常のニュースでは四国連盟のことは耳にしなかった。米・日・印の連盟の報道はあったものの。だから、「態(わざ)となのかな?」と、思わなくもなく。
こういうとき、「国民レベルでの信頼構築って、一体何なのだろう?」と、思う。「国民レベルでの信頼構築を謳っているフォーラムだから、日本において漸く四国連盟について扱われた。」なんてことだったら、正直閉口するに余りある。願わくば、私に時間がないために、それについて扱った記事を見逃していたことを祈ろう。
日中 国民レベルで信頼構築を(NHKオンライン 2007年8月28日 16時42分) 日中両国の政府関係者や有識者が、日中関係のあり方について本音で議論をしていこうというフォーラムが28日から北京で始まり、国民レベルでさらに信頼関係を築いていくことの必要性などについて意見が交わされています。
このフォーラムは、日中関係について突っ込んだ意見交換を行っていこうと日本の民間団体「言論NPO」や中国の新聞社などが主催したもので、日中の政府関係者や有識者が参加しています。
この中で、新日中友好21世紀委員会の日本側座長を務める元経済同友会代表幹事の小林陽太郎氏は、「日中関係は去年以来よくなっているが、国民レベルでは、互いの信頼関係についてまだまだ目指すところまで至っていない」と述べ、さらに改善を図る必要があると指摘しました。
一方、中国側は、全国政治協商会議外事委員会の趙啓正副主任が発言しました。この中で、趙副主任は、安倍総理大臣がインドで行った演説で、インド・アメリカ・オーストラリアのあわせて4か国による関係を強めていく構想を示したことについて触れ、「この4か国の中に中国は入っておらず、憂慮している」と述べ、中国を孤立させようとしているのではないかと懸念を示しました。
また、環境問題を担当する国家環境保護総局の李干傑副総局長は「日中が共同で環境問題の解決を図ることは、この地域だけでなく、世界的にも重要な意味を持つ」と述べ、日本との協力関係の強化に期待を示しました。このフォーラムは、北京で29日まで開かれています。
[ 2007/08/28 18:34 ]
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“聞こえている”ことに悩むに当たり、私が一番懸念したのは、八つ当たりとも取れる感情を抱くこと。その感情を抱き続け、その感情のままに物事を判断することを固定化されるとなれば、私自身にとってもメリットはないから。
もちろん、人間として曲がりなりにも生きている以上、イライラとしないという方が不自然だし、イライラという言葉で片付けることが出来る感情も、その背景を探れば、その原因は様々。そして、その原因に、私個人において対応可能なことを進めようとすれば、正直、時間が幾らあっても足らない。
私という単体に係わることなら、それに基づいて、ある程度は対処することが可能。でも、“聞こえている”ことを含めて考慮するとなれば、暗中模索も良いとこ。
でも、以前において、俺は、「しなくてはならない。」と、考えた。今となっては、何故、ああも思い切れたのか分からないけれど、裏返せば、それだけ逼迫した心理的状況にあったということなのだろう。そして今日に至る道程の御蔭で、以前ほどの気持ちは、私にはない。
正確には、これまで辿って来た経緯と、日々努めていることの成果だろうが。
これで飯を食って行くことが出来れば、それに越したことはないのだが、そんな簡単に済めば、これまでにおいて悩んでは来ていないことも事実。それはつまり、私自身もまた、そうした事実を無視するというわけでもないけれど、距離を保つ必要があるということに他ならない。
将来的な生活の不安もあるとはいえ、日々において、それが上手く出来ているかどうか不安だよ。
[ 2007/08/26 22:42 ]
ご注意下さい。 |
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