ここ最近、記事を浚うこと自体から離れていた。が、スターリンによる大粛清の犠牲者を追悼する行事に際しては、「流石に、浚っておかないと。」という気持ちを抱くこととなった。
ここ最近として、本当に変な感じで、『おはよう世界』のような朝のニュースを見ることは厭わないものの、『きょうの世界』のような夜のニュースを見ることからは遠退く気持ちがある。もちろん、目を通すときは通すのだけれども、「それよりも他の番組に目を通したい。」という気持ちが勝るのである。
◇
私は、ドラマやバラエティー番組を見ないわけではない。でも、一身上のこと故に、ドラマやバラエティー番組に目を通すことに疲れ切った末として、ニュースやドキュメンタリーに目を通すことを切望するようになった経緯がある。もちろん、他にも理由はあるけれど、他人をして分かり易いだろう理由としては、それがある。
そして、ニュースやドキュメンタリー以外の番組に目を通すことで、逆に、(ニュースやドキュメンタリーを視聴していた際に抱かされた)「こうしたニュースが扱われたのは一体何故なのだろう?」という疑問への答えめいたものに気付かされることが間々ある。でも、それはニュースやドキュメンタリーを見ていたときにも言えること。(つまり、それら以外を視聴する際に疑問だったことが、それらを視聴することで凡その見当が付く。)
それが面白いと言えば、面白い。
とはいえ、ここ最近のそうした視聴動向に際し、「ニュースを見ることで、それに伴う責任めいたものを背負いたくない気持ちが、大きくなっていると言えるのではないか?」と思う。
俺は、一身上のことがある手前、可能な限り目を向けることが正しいと思っていた。でも、その結果として今の私がいるわけである。その上、それで生活して行くことを社会的に認められてはいないわけだから、変な責任を求めるような馬鹿の言葉のままに、俺が変に気負う必要はない。今は、そう思うわけである。
俺は別に、“やんごとなき方々”の一人ではないのだからな。
でも、レーニンの粛清、スターリンの粛清については、(当人にその意図があるかは分からないが、仮定の話として、「粛清の厳しい時代に生を受けていたら、お前は殺されていただろう。」というニュアンスを含めて)簡単には聞いて育っている手前、そうした自身において培って来たことを越えて反応する気持ちがどうしても出て来る。
事態の展開振りによっては、下手をしたら、当時と同じことを繰り返す羽目になることは目に見えているロシア。もしかしたら、今もそうなのかも知れないが、ロシアはロシアで頑張っているように見えなくはない。だから、粛清の厳しい時代へと再び入るのは、私には頂けない。
それを考えると、政治的意図があるにせよ、プーチン大統領が追悼行事に際して献花をしてくれたのは、素直に嬉しい。日本の天皇を始めとした皇族とかの行動に際しては、嬉しくなったり等の実感はないのだけれど、何故か、外国のことに関しては、そういう気持ちを意識させられる。
適度な距離感を図るというのは、本当に難しい。
ロシア:スターリン大粛清の追悼行事 プーチン大統領献花 【モスクワ杉尾直哉】旧ソ連の独裁者スターリンによる大粛清の犠牲者を追悼する行事が10月30日、ロシア全土で行われた。プーチン大統領は2万人以上が銃殺されたとされるモスクワ郊外ブトボの旧秘密警察の演習場を訪れ、献花した。大統領が旧ソ連の政治抑圧の犠牲者を追悼したのは00年の就任以来初めて。だが、大統領からスターリンの責任を問う発言はなかった。
スターリンの大粛清は70年前の1937年にピークを迎え、共産党幹部や軍人、知識人らの犠牲者は2000万人とも4000万人ともいわれる。大統領は記者団に「自分の思想を表明するのを恐れない最も優れた人々だった。このような悲劇を繰り返してはならない」と語った。
一方で「37年の抑圧は、それ以前の内戦や富農撲滅の残酷な時代によって用意された」と指摘。コメルサント紙(電子版)は「大統領はスターリンが果たした役割をなんら強調しないどころか、無視した」と報じた。
さらに大統領は「(異なる思想をぶつけ合う)政治的論争は必要だが、破壊的であってはならない」と語った。12月の下院選や来年3月の大統領選を前に、反プーチン派の活動にクギを刺す狙いがあるとみられる。
毎日新聞 2007年10月31日 19時17分
[ 2007/10/31 21:02 ]
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昨日に放送された『ガンダム00』の第4話を何とか見ることが出来(結構、無理しました。下手したら後日、同僚の人に難癖付けられるかも。)、例の如く感想を記そうと考え、「その前に、」と、ブログに感想を記されている方たちの見解をお浚いしていました。
お浚いとはいっても、これまでにおいて、「この人たちの見方は参考になる。」と、判断させられた限りある人たちが記された内容ですが。
何れにせよ、そうしてお浚いをして、それまでに考えさせられていたことと併せて考えるに、「その内容を、現実的に対応する上で転化させるべく突き詰めて考えるに、現段階では難しいなぁ。」と、思う他はない。
◇
知っていれば配慮することが可能なこともあれば、知っていても配慮することが出来ないこともある。でも、政治は、それを敢えて踏み越えて行かなければならない。それを第3話で個人レベルで押さえた後、第4話で個人レベルでのことを踏まえつつも実際に動く世界を前にした展開を描く。
一視聴者としては、それを踏まえて、「あなたは、どう思う?」と、聞かれているようで。制作者側として、最後に描かれた(高校生の)沙慈のような見解を念頭においていることは明白なだけに、「そこまでの期待はされていない。」と考え、下手に悩む必要はないのかも知れない。が、私は高校生ではないし。
寧ろ、マリナの年齢に近い(政治的・社会的立場はどうか知れないが。)。
沙慈の姉、絹江のようにジャーナリストでもないから、彼女のように「世界は簡単ではない。」と、達観するだけでも駄目。刹那によって日本の平和的な風景に重ねて示された崩壊イメージと同様、時と場合によっては、簡単に死んでしまうわけだし。
マリナの場合は、国の首都にまでテロ行為が及んでいるだけに、その現実は日本の人たち(沙慈を含む。)よりも身に沁みているはず。
私自身、自身の立ち位置を考えるに、絹江のような見方に留まるわけにはいかないことは分かっているつもり。でも、割合平和(?)な状況下での生活を図ることが出来ていることも事実。その上で、突き詰めて考えるに、私は一体どのように記すのが適切なのか。難しいよ。
とはいえ、追々仕上げることが出来るように、努めます。
[ 2007/10/28 10:25 ]
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『ガンダム00』が始まって、第3話目を迎えた。正直な話、とても面白いし、勉強になる。そして出来ることなら、リアルタイムで見続けたい。だからHPに感想を記すにつけては、ついつい長々となってしまう。
自身のことを含めて考えた上で、自己満足のために記しているわけだから、時間を掛ける必要のあることだと思っているし、それで良いとは思うのだけれども。
最近の自身を振り返るに、我ながら、それ以上のことへと頭が回らない。
◇
アルバイトをする中で、職場での人間関係、お客さんとの関係において嫌なことはあるものの、自身をして何処に行ってもあることと考えれば、「嫌なこと」と言うのも可笑しいようなことぐらいで、それなりに楽しく勤めることが出来ている。
自分自身の性質の手前、下手に勉強をしても意味はないことは分かり切っているけれど、少しずつであれば勉強をすることは厭わなくなっているし、ニュースを見ることには問題はない。
ただ、ここ数日として、ドキュメンタリーを見ること、NHKオンラインのニュースを逐一チェックすることから遠退いている。自分でも、その理由が見当も付かない。言葉として表出することが出来る形で「嫌。」とか、そういうレベルではない忌避意識が働いているのは確かなのだけれどさ。
かと思えば、『ガンダム00』の感想を記すにあたり、(幾ら、ドキュメンタリーを必死に見ていた頃があったとはいえ、)「俺の晒されている状況下で、そんな情報を知り得るわけがないだろう?」という疑問を抱きたくなるような認識に至ることが間々あることも事実で、以前からガンダムと限らず似たようなことがあることを想起するに、「またか…。」と、思わなくもない。
まぁ、年齢が年齢であるし、全くもって何も知らないというわけではないのだから、「想定可能」と言い切っても良い部分も確かにあるのだけれどさ。
何れにせよ、そんな感じで、現実の世界で起こっていることに言及する暇はない。
果たして、それが自身にとっても世界にとっても良いことなのか、私には分からない。相変わらず、変な人生だよ。
[ 2007/10/21 17:36 ]
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以前、“聞こえている”が故に、それを通じて双方に伝播することに巻き込まれてしまい、精神的な自由を必要以上に制限されていることを意識した末として、それを拒否する必要性を認識したことがある。
私が完全無欠の聖人などではないように、多くの様々な他人もまた、そうではない。その認識はあれど、各々は各々の認識に基づいて動く他はない。となれば、私は、その認識の幅を幾らかでも拡げることに、その活路があるはず。そのように考えたわけである。
でも、大学生の時分と異なり、そう逐一表現し続ける時間があるわけではないし、大学生の時分は、それを見込んだ上で、可能なことは出来るだけ表現するように心掛けていた。だから、それ以前ほどのプレッシャーは感じてはいないことは確か。
とはいえ、“疲労”が蓄積しているというか、“揺り戻し”が進んでいるというか、人によっては、アルツハイマーとか馬鹿とか言われても仕方のない状態が進行していることを、ここ数日として認識させられる。
◇
これを当初として記したのは、今月の6日。そして今日は17日。その間、11日。その間として、自分の中に広がって行く感覚を目の当たりとするに、そのことを否応なく認識させられる。
教育レベルとして、一般に、小学生くらいまでは同じぐらいらしいが、中学・高校(更に言えば、その先)ともなれば、結構な差があるらしい。私は、中学生の頃にそのことを知り、その事実を前に、悩むようになった。
それなりに勉強をして高校生となったまでは良しとして、感じる他はないプレッシャーに対応をするべく無心(色即是空)の心持ちを得ることを心掛けること知ったまでは良しとして、かといって、“聞こえている”ことを前に、恐々としていた時分。それ以上の勉強を進めるのは、私には困難であることを意識していた。
が、高校生活は始まり、担任に、勉強を進めることが困難であることを訴えはしたものの、「(当時の学業レベルを理由として、)そう気にすることではない。」とされた。とはいえ、案の定、勉強をすることが困難であることを数字の上で知るに従い、自分でも一体どうすれば良いのか分からなくなっていた。
“聞こえている”ことを鑑みればこそ、そんな自分として出来ることは、限られた。後にも先にも、勉強をする人たちはいるわけであるし、「彼らに自分と同じような心情を抱かせるわけには行かない。」と思ったし、「精神面を含め、可能な限り“健康的”であることを心掛ける必要がある。」とも思った。
そのためには、頭の中でモヤモヤとしていることを整理する必要があると認識し、文字として書き出す作業に努めようとした。が、そうした作業に努めれば、学業を疎かにすることを意味し、その分、プレッシャーは感じるものだし、自身として勉強を進める余地があるにせよ、学業レベルは低下することになる。
一応、その認識はあったから、授業だけは真面目に聞くように努めたけれど、「感覚的に分かること」と「試験など学業に通じる面において分かること」は別物であることを突き付けられる日々の中で、本当に一体どうすれば良いのか分からなくなっていた。
今であれば、そうして“聞こえている”ことを前提とした一連の過程を経ている手前、“聞こえている”こと自体に、そこまでに恐々とすることはないけれど、事ある毎に、そうした一連の過程において自分自身に強いて来た(今や、自身の血肉となっている)事事を意識させられる。
以前に比べ、感じるプレッシャーに基づいて、凡その予想を立てることが出来るようになってはいるものの、そうした予想を支えているのは、こうして表現出来るようになって以降の積み重ねがあってこそ。例えば、思念として怒気を向けられても、ただの頭痛ではないことは分かっても、それ以上のことは見当も付かない。でも今は、それで終いということは、そうない。
以前であれば、文字として書き出す内容に伴うプレッシャーを前にして、どうにも仕様がなかったものの、今であれば、こうした文面を前提とした(他人の)思念を汲み易いから、その思念を受けて、思考の幅を私自身もまた拡げることが出来る。そうした積み重ねを、大学生の時分として、することが出来たからこそ、今の自分がいる。
とはいえ、その事実に感謝は出来ても、実生活面を考えると、そう言ってもおられない。“普通”とされる人たちからは離れたところにいる事実に、変わりはないのだから。
これまでの経緯というか経験というか、そうしたものに基づき、この世界に生きている本当に多くの様々な人たちの影響を強く受けていることは無視できない。そして、感じる他はないプレッシャーを前に、こうして記す機会がなければ、気持ちとして右往左往するしかない事実もまた、変わってはいない。
俺、死にたくはないけれど、生活を考えると、自分にとって一体何が幸いなのか、本当に分からなくなる。
[ 2007/10/17 22:01 ]
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これまでの人生、他人に何も言われずに過ごして来ているわけではない。そして自らへの負い目から、私が人間であるように、他人もまた人間であることを軽視する見方に慣れ親しんだこともある。そして自分自身のことを、強く責めたこともある。
とはいえ、そうした一連の過程において、他人の言葉が如何に自分本位で無責任なものなのかも知って行った。
だから、他人の言葉に対して、高を括っているというか、人によっては小馬鹿にした反応を取ることを、私自身に許すようになっている面があることは否定できない。
要は、「他人をして自分本位で無責任なものなのに、何故に私が、そうではないことを求められなければならない?」という疑念というか、そうしたものを抱いて来ているわけである。
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もちろん、一身上のことゆえ、職を得ること並びに仕事を続けて行くことの困難さへの認識はあるものの、その疑念が付いて回っていることは、否定しようがない。
そして、職を得ること並びに仕事を続けて行くことの困難さへの認識に基づいて悩んでいた時分をして、その疑念のために一肌脱ぐことなど考えられなかったのも事実。
自身の影響もあるかも分からないが、感じているプレッシャーを考えれば、「私一人が何の脈絡もなく何をしたところで、人間のそういう部分は大差ない。」と、見込む他はなかったから。
だから、カウンセラーになることを考えていた頃は、それに少し近付けるような気がして、胸の躍る気持ちがあった。
でも、今は、カウンセラーにも、精神保健福祉士になることも、考えることの出来る余裕がない。恐らく、今は未だ対象化できない何処かで、それに対して辟易しているのだろう。
公務員試験を名目に、少しずつとはいえ勉強をする中で、自身として勉強をすることの意味を見出して来てはいるものの、私を取り巻く現実に変わりはない。とはいえ、これまでの人生を考えれば、その事実に絶望することには、最早慣れてしまっている。
多分、踏ん張り時なのだろうな。今の時分って。
[ 2007/10/02 21:30 ]
つれづれ |
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