粛清 

 ここ最近、記事を浚うこと自体から離れていた。が、スターリンによる大粛清の犠牲者を追悼する行事に際しては、「流石に、浚っておかないと。」という気持ちを抱くこととなった。

 ここ最近として、本当に変な感じで、『おはよう世界』のような朝のニュースを見ることは厭わないものの、『きょうの世界』のような夜のニュースを見ることからは遠退く気持ちがある。もちろん、目を通すときは通すのだけれども、「それよりも他の番組に目を通したい。」という気持ちが勝るのである。



 私は、ドラマやバラエティー番組を見ないわけではない。でも、一身上のこと故に、ドラマやバラエティー番組に目を通すことに疲れ切った末として、ニュースやドキュメンタリーに目を通すことを切望するようになった経緯がある。もちろん、他にも理由はあるけれど、他人をして分かり易いだろう理由としては、それがある。

 そして、ニュースやドキュメンタリー以外の番組に目を通すことで、逆に、(ニュースやドキュメンタリーを視聴していた際に抱かされた)「こうしたニュースが扱われたのは一体何故なのだろう?」という疑問への答えめいたものに気付かされることが間々ある。でも、それはニュースやドキュメンタリーを見ていたときにも言えること。(つまり、それら以外を視聴する際に疑問だったことが、それらを視聴することで凡その見当が付く。)

 それが面白いと言えば、面白い。

 とはいえ、ここ最近のそうした視聴動向に際し、「ニュースを見ることで、それに伴う責任めいたものを背負いたくない気持ちが、大きくなっていると言えるのではないか?」と思う。

 俺は、一身上のことがある手前、可能な限り目を向けることが正しいと思っていた。でも、その結果として今の私がいるわけである。その上、それで生活して行くことを社会的に認められてはいないわけだから、変な責任を求めるような馬鹿の言葉のままに、俺が変に気負う必要はない。今は、そう思うわけである。

 俺は別に、“やんごとなき方々”の一人ではないのだからな。

 でも、レーニンの粛清、スターリンの粛清については、(当人にその意図があるかは分からないが、仮定の話として、「粛清の厳しい時代に生を受けていたら、お前は殺されていただろう。」というニュアンスを含めて)簡単には聞いて育っている手前、そうした自身において培って来たことを越えて反応する気持ちがどうしても出て来る。

 事態の展開振りによっては、下手をしたら、当時と同じことを繰り返す羽目になることは目に見えているロシア。もしかしたら、今もそうなのかも知れないが、ロシアはロシアで頑張っているように見えなくはない。だから、粛清の厳しい時代へと再び入るのは、私には頂けない。

 それを考えると、政治的意図があるにせよ、プーチン大統領が追悼行事に際して献花をしてくれたのは、素直に嬉しい。日本の天皇を始めとした皇族とかの行動に際しては、嬉しくなったり等の実感はないのだけれど、何故か、外国のことに関しては、そういう気持ちを意識させられる。

 適度な距離感を図るというのは、本当に難しい。



ロシア:スターリン大粛清の追悼行事 プーチン大統領献花

 【モスクワ杉尾直哉】旧ソ連の独裁者スターリンによる大粛清の犠牲者を追悼する行事が10月30日、ロシア全土で行われた。プーチン大統領は2万人以上が銃殺されたとされるモスクワ郊外ブトボの旧秘密警察の演習場を訪れ、献花した。大統領が旧ソ連の政治抑圧の犠牲者を追悼したのは00年の就任以来初めて。だが、大統領からスターリンの責任を問う発言はなかった。

 スターリンの大粛清は70年前の1937年にピークを迎え、共産党幹部や軍人、知識人らの犠牲者は2000万人とも4000万人ともいわれる。大統領は記者団に「自分の思想を表明するのを恐れない最も優れた人々だった。このような悲劇を繰り返してはならない」と語った。

 一方で「37年の抑圧は、それ以前の内戦や富農撲滅の残酷な時代によって用意された」と指摘。コメルサント紙(電子版)は「大統領はスターリンが果たした役割をなんら強調しないどころか、無視した」と報じた。

 さらに大統領は「(異なる思想をぶつけ合う)政治的論争は必要だが、破壊的であってはならない」と語った。12月の下院選や来年3月の大統領選を前に、反プーチン派の活動にクギを刺す狙いがあるとみられる。

毎日新聞 2007年10月31日 19時17分
[ 2007/10/31 21:02 ] 情報・私事 | トラックバック(-) | コメント(-)